平成九年五月十日(土)午前十時始
連吟 竹生島 仕舞 鶴亀 清経キリ 羽衣クセ 雲雀山 嵐山 素謡 土蜘蛛 仕舞 花月クセ 班女クセ 羽衣キリ 小鍛冶キリ 附祝言 終了予定 十一時半頃
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連吟・竹生島 そもそも連吟とはなんぞや。連吟とは。それは謡曲の一部分を、みなで一緒に声を揃えて謡うことであります。説明終わり。 これは醍醐天皇の頃のお話です。天皇にお仕えしている人が、竹生島のうわさを聞いてお参りをしようと志賀にやってきます。時は三月半ば頃。旧暦ですので、桜の盛りかと思われます。 志賀の湖岸に着いた都の人。そこへうまいこと釣り舟がやってきました。都の人は、この舟に乗せていってもらおうとします。舟には漁師のおじいちゃんと海女のお姉ちゃんが乗っていました。 「乗せてよ」 おじいちゃんは渡し舟じゃないよ、釣り舟だよといいましたが、都の人は口がうまくてね。で、おじいちゃんも折れまして。 「せっかく来てくれたのにあれこれ言ってちゃいけないねぇ。神様の御心にも背くかもしれませんしのう」 のどかな舟旅は始まりました。
島に着きました。おじいちゃんは案内してあげる、といって歩き出しました。お姉ちゃんも一緒に歩いていきます。そこで都人は変に思い、質問します。 「女人禁制ってきいてたんだけど、何でお姉ちゃんも行くの」 そこでおじいちゃんは説明します。
さあ、ここからが謡うところだ。
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仕舞・鶴亀
文字通りめでたい話である。
時は唐代、舞台は中国、楊貴妃のパパの玄宗皇帝のお話である。新年はやはりめでたいものである。去年一年を無事に越し、今年ももしくは今年こそは無事に過ごすぞと妙な期待を皆が持つときだ。そういう気分が高まるときに長寿の象徴である鶴さんと亀さんが舞う。すると正月のせいか、鶴さん、亀さんのせいか玄宗皇帝がただの出しゃばりなのか彼は舞い始める。まさに僕がやるのはその玄宗の舞だ。
話の補足として正月には、皇帝である玄宗の所に皆が集まり新年の祝いを申し上げるというのがあった。その一環として鶴と亀が舞ったそうだ。
さて部員の構成を見てもらえばわかるように男は俺一人だけだ。幸い今のところそれが原因で苦労らしき苦労はしていないが、実は俺にはそれ以上の悩みの種がある。それは、俺がものすごい音痴だということだ。音階だけではなく、リズムも極度の音痴である。どれくらいかというと音階に関しては、一定の音程を保っていられなく、リズムに関しては、手拍子を一定間隔で出来ないくらいの筋金入りの音痴だ。
そもそも能楽部に入部したのは日本的な“動き”に興味があったからでまさか“音楽(謡)”が待っているとは夢にも思っていなかった。まさに“あめと鞭”はっきりいって面くらった。でもそれにもめげず諸先輩方の厳しくも愛情あふれる細やかな指導(笑)のお陰で遅くはあるが、確実に進歩をとげている。(ほんまか?)そんな俺の晴れ舞台を見守ってやってくださいな。暖かくね。それでは…。
<二期生 T.O>
仕舞・清経キリ ようこそおいで下さいました。本日は私の夫の話をさせていただきます。 私の夫は、妻の私の口から言うのも何ですが、風流を好み、自然を愛したまたとない心優しき人でありました。あの人の奏でる笛の音に、いつも私は夢見心地にさせられたものです。あの経盛さんのところの敦盛ちゃんも笛が上手でしたけれども、私はあの人の音色の方が好きでした……。教盛さんのところの敦盛ちゃんも笛が上手でしたけれども、私はあの人の音色の方が好きでした……。 夫は、死にました。あの源氏との戦いの折に。いえ、討ち死にではないのです。そうでしたらまだしも……病でもよかったのでございます。それが、自ら命を絶ったというのですから。私を一人おいて。 夫の家臣が遺髪を届けてくれましたが、私は受け取りませんでした。慰めに、というのですが慰めどころか、見ればますますつらくなるというもの。 その夜、夢枕に夫が現れました。私が遺髪を突き返したのを恨みに思って。でも、恨むのはこちらとて同じです。私一人をおいて自分だけ死ぬなどということがありましょうか。しかし、私はまた心配でもありました。乱世とはいえ、戦いに生きた者には死んでなお修羅の世界が待ち受けているものなのです。戦いを好まず死んだあの人が冥界でまで修羅に生きなければならないとしたら……それこそ悲劇です。 ですが、夫は最後に唱えた十念のおかげで成仏できたのです。本当はそれを知らせに来てくれたのです。私を悩ませまいとして。 夫の名は平清経と申します。
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仕舞・羽衣クセ 風早の、三保の浦和を漕ぐ舟の、浦人さわぐ波路かな……。 春の風が吹いている。身にまとった無重力ガウンで、暖かい空気の中を思うままに泳ぎまわった。あたしは、数千年を遡った過去の地球へ月から来た。あこがれの旅行。過去を変えないことを誓い、二十分間だけの旅行を許された。タイムマシンで富士山の上空へ。 海岸の松林、波の音、海のにおい。動きまわる波の誘惑に負け、松林の中で無重力ガウンを脱ぎ、波打ち際に駆け寄った。残り時間も短くなり、急いで松林に戻った。すると、置いたはずの無重力ガウンがない。それが無いと、タイムマシンに帰れない。 その時、若い男の声がし、その手には銀色の無重力ガウンが。過去の人との接触はタブーに値するが、品物を渡したりしたら、とんでもないことになる。 月から来たあたしを天女と思い込んだ青年は、条件つきで衣を返してくれた。人間にできない何かをするという条件で。あたしは、手早くガウンを身につけ、空中に浮かんだ。そして時間の許す限り、月の歌と踊りを見せた。 あたしはタイムマシンに帰りつき振り返ったけれど、もうあの青年は霞の下になっていた。 以上は、星新一氏の『羽衣』を要約してみたものです。機会があれば読んでみて下さい。私の舞う「羽衣」を見てください。A.Yさんの「羽衣キリ」も見てちょ。
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仕舞・雲雀山 なぜって、豊成様ったらこの幼き中将姫の実の父親でありながらですよ、従者に殺すように命じるんですもの。あんまりでしょう。到底従者にだってそんなこと、できるはずがなかったのです。だから乳母の身である私に「姫を雲雀山に匿ってくれ」なんて言うのですわ。そうして私と中将姫との雲雀山での生活は始まりましたのよ。私は豊成様と姫との再開を待ち焦がれながら、このように物狂いを装って里の人に花を売りに出かけたりしているのです。(実際この後豊成が雲雀山に狩りにやってきて過去の過ちを悔いながら姫と再会。めでたしめでたし。) 今回の雲雀山は地謡のみんなが覚えるのにとても苦労していたようでした。それが分かったのは合宿へいく電車の中でした。昨年と同じ所へ行ったのですがあの頃よりも確かに乗客の多いこの電車にはトマ○プリッツを食べてコーヒーでのどを潤し、時折言葉を交わす夫婦の姿がありました。私とC.L(昨年度能楽部に在籍していた研究生です。淡海能を見に来て下さった方は御存知でしょ!)はその風景に加わることとなりました。今でもなぜかこの風景は私の心に残っているようです。 そういえば笑ってごまかさないようにならないと……。
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仕舞・嵐山 あの橋の 欄干の上 しだれ桜は咲き乱れ やあ、あれに見ゆるは何と 舞い遊ぶ神々なり あやめ会 楽ではないぞ 仕舞のけいこ 山ちゃんごめん また同じだ(とほほ) あかんわ。 ラッキーは去った。 しもたわ。 やっぱり。 またか。
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素謡・土蜘蛛 素謡とはなんぞや。素謡とは。一曲を最初から最後まで謡のみでしてしまうものです。素謡の“素”は素うどんの“素”と同じとみたね。 登場人物紹介
お話の筋を知るのに、ちょうどいいものがありますのでそれを紹介しますね。 『山城土蜘蛛成敗伝』目録より 第六輯巻之三
第六輯巻之四
第六輯巻之五
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仕舞・花月クセ 私が舞うのは、そのものズバリ“花月”という少年です。 在俗の時にわが子を天狗にさらわれてしまったとある旅の僧が清水寺へ赴き、寺近くの男に案内をたのんだところ、男は花月という喝食が面白く狂う旨を教えます。そして男に呼び出され、花月登場。後になってこの花月こそが僧の子と判明するわけです。めでたしめでたし。 さて、この仕舞の場面では、僧の所望で花月が清水寺の “あやめ会”の頃、彦根城の桜はとっくに葉桜ですね。それがちょっと残念ですが、まぁ花月ほどの ところで天狗にさらわれた花月その後どうしてたんでしょう。さらわれた後、すぐに清水寺にぽいっと捨てられたんでしょうか。それとも花月お得意の舞でも教えてもらってたんでしょうか。天狗が美少年に舞を教えている姿って……何か、変じゃないですか?
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仕舞・班女クセ 「班女」という題は中国の故事に出てくる女性の名からきています。その班女という女性は女流詩人で、宮女でもあります。武帝の寵愛を失ったわが身を秋になると捨てられる夏の扇にたとえたことで知られている人です。 この「班女」のお話の主人公は花子さんという遊女なのですが、たまたまある日の客、吉田少将さんにぞっこん惚れ込んでしまいます。それからというもの花子は少将の愛のしるしとしてもらった扇を日夜眺めては物思いにふけり、仕事ができないので宿を追い出され、少将との再開もかなわず、悲観にくれてついには狂女になってしまうのです。 私の舞うところは、狂女となった花子が班女と自分を重ね合わせ、忘れられる我が身を嘆き、男を恨めしく思って舞うという場面です。しかし、激しく舞い狂うというんじゃなく、静かで淡々とした中に女の狂気が混ざっている、というような舞なのですね。 なぜ私が「班女」を選んだのかというと、そういう恨みだとか悲哀、狂気というようなものを表現してみたいと思ったからです。けれど、私個人は、そういった悪く言ってしまえば女くさいようなものが好きではないのですが……いや、やっぱり好きなのかもしれません。
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仕舞・羽衣キリ 羽衣キリです。羽衣クセとはひと味違います。羽衣クセはA.A部員が舞います。ストーリーはそちらをどうぞ。“クセ”と“キリ”の違いは祐筆Rさんが詳しく詳しく解説してくださっていますのでそちらをどうぞ。(それでいいのか?) さて、このお仕舞の中には両手でブワーッブワーッと仰ぐ動作があります。この動きをやるとうちの部員は「さむ〜、風来たて〜ぇ」と言いやがるのです。それぐらい大振りなんです。ブワーッとするとみんなの前髪がフワーッとあがり、これがまたおもしろかったりします。みなさんにもこの扇風が届くかもしれません。あげしおじゃー。 またまた余談ですが、この春長野に合宿に行って、財布をとられました。「羽衣」だったらひと舞して天の羽衣を返してもらえるのになぁ。同じように私の財布も返してくれんかなぁ。暴れん坊天女の舞でよければいくらでも舞うのになぁ。あぁあ、返してほしいなぁ。あの財布の触りぐあいがたまらなく好きやったのになぁ。と、いつまでもうじうじしていられんので、これからも頑張ります。どうか見守っていて下さい。ついでに財布を返して下さい。(お仕舞の話はどこいった?)
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仕舞・小鍛冶キリ 三条の小鍛冶宗近は、勅命により御剣を打つことになりますが、困ったことに相槌(刀をトンカン鍛える時の相方)を取るのにふさわしい者がいません。神の力にすがろうと、氏神である稲荷明神(今の伏見稲荷)へ祈願に行った宗近は、そこで不思議な童子に会います。童子は、宗近の打つ剣は日本武尊の 今回の仕舞では、私は狐の役です。狐が勅使に御剣を捧げ、雲に乗って帰って行く場面を舞うのです。今までの仕舞では、帝とか童子の役でおとなしい舞ばかりでしたが、今回初めて激しい舞をやります。一つ一つの動作が今までのものと全く違うので難しいですが、念願の飛び返り(空中一回転)が二回もできるので楽しいです。それにしても激しい舞は一度舞うとかなり疲れるものです。ちゃんとご飯をたくさん食べて、元気をつけておこう。
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祝言・猩々 祝言。はて。祝言とはなんざましょ。会をしめくくるにふさわしいお目出たい謡の一節ですな。 私の名前は さて、いきなりですが、私は親孝行なんです。だから、ある晩不思議ないい夢を見ました。揚子の市に出てお酒を売ったらお金持ちになれるよ、というのです。今は亡き親が、夢という形をとって私に教えてくれたのです。 教えられたとおりお酒を売りますと、時がたつにつれ、私は本当に大金持ちになりました。うらやましいでしょう。 いやいや、今日お話したかったのはそんなことではありません。自慢話をしに来たのではないのです。市が開かれる度に来てお酒を飲んでいく不思議なお客さんのことを聞いていただきたかったのです。 その人は、どれだけ飲んでもちっとも顔色が変わらないのです。こういう人をうわばみというのですかね。私は不思議に思いまして、このお客さんに興味を持ち、名を尋ねました。猩々さんとおっしゃるのだそうです。しかも海中に住んでいるとおっしゃいました。 今日は、ここ、 おお、やってきました。ごきげんなようです。猩々さんは赤い顔をしていらっしゃいますが、それは地の色のようです。飲んでいても飲んでいなくても赤いのです。いや、飲んでいないときなぞないのかもしれませんよ。よっぽどお酒が好きなのですね。 ごきげんで舞っていらっしゃいます。どうも人間じゃないみたいだけど、いいですかね、それでも。だって、こんなに楽しい人なのだから。おめでたくもあるし。 祝言で歌うのはお話のラスト。猩々さんが高風にいくら汲んでもなくならない素敵なお酒の壷をくれて、夢から覚めた高風が「あれは夢だったんだな」と思ったけどその酒壷はちゃんとありました、ってところです。
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しじみ隊長よりのメッセージ こんにちは、しじみ※1です。私たちの能楽部も第二回※2定期公演を開くほど大きくなりました。これも私たちしじみの陰の努力があったからこそ・・・ではありませんね、残念ながら。しじみは能楽部の親衛隊なんですが、普通親衛隊というのは応援する人、ここでは能楽部さん、の活動を細かくチェックし、お稽古をねぎらい、時にはさし入れをするなど、かいがいしく※3働き、熱狂的な人に至っては、ファンの人の謡やフリ(ここでは舞)を覚えるほど、のめりこむものかもしれません。・・・・・・現状とのギャップが激しすぎてつらくなってきました。そのような活動をしじみ隊員が行っているのを見たことがありません。逆に前回公演の後、「しじみさんありがとう会」を開いていただき、恐縮しています。 今のところ、能楽部の親衛隊はしじみとなまず※4とたにし※5だけなので、「親衛隊です」と大きな顔をしていられますけど、いつこの立場がとってかわられるかと思うとびくびくしています。でも何にもしないんだけど。しじみはまた今回も本番だけかいがいしく※6お手伝いしていることと思います。あんまり親衛隊くさくないけど、でもね、しじみは能楽部さんが活躍するととてもうれしいのです。
編集長注・・・
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なまず隊長よりのメッセージ やあ。はじめましてなのだなまず。なまず隊長なのだなまず。琵琶湖からあがってきたのだなまず。風薫る五月のあやめ会なのだなまず。年頃日頃の精進の成果を、立派な舞台で見られるのだなまず。ウキウキうれしいかぎりなのだなまず。 祝辞には賢いことのひとつも寄せてやりたいのだがなまず。実はお能のことにはあまり詳しくないのだなまず。すまぬのだなまず。 えー。お気付きの人もあろうがなまず、どうしても語尾になまずなまりが出るのだなまず。ここまでの字数の四分の一は「〜のだなまず」なのだなまず。これはクセなのだなまず。しかたないのだなまず。なくて七クセというのだなまず。 実はお能にも同じようにクセみたいなものがあるのだなまず。曲(くせ)舞のことではないのだなまず。このクセがわかればお能は難しくないのだなまず。お能すべてを貫くクセもあれば、演目毎のクセ、うたい舞う人それぞれのクセもあるのだなまず。同じ曲でも人が変われば趣もかわるのだなまず。 下手のクセはいかんが上手のクセはその人の持ち味として人を魅付けるのだなまず。 ちょっと息があがってきたのだなまず。だから、今度も演者の良いクセをさがしながら見れば、お能が楽しくなるのだなまず。 では、わしはここらでしばしお堀につかってくるのだなまず。さらばだなまず。
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仏でオホホ 〜あやめ会を祝して〜 お初にお目にかかります。いかごはん梅子と申す者にございます。何でも、曲目の説明の中に仏教関係のことで祐筆Rさんの手におえない部分が出てきたとかで、私が少々解説をさせていただくこととなりました。私と仏教の関わりについては『湖北十一面観音の魅力の謎を探る』という冊子を御覧いただくとよく分かるのですが、残念なことにただいま非常に品薄で入手しがたくなっております。版元にお問い合わせ下さい。 さて、本題に入りましょう。『竹生島』ですね。何ゆえ竹生島は女人禁制ではないのか、というくだり。弁天さんが女の子だからだ、というのはストレートで分かりやすくはありますが、女の神様をまつっていても女人禁制のところはありますし。そういう方は男の人の方がお好きなのでしょうね。そりゃあね。で、そのあたりを謎解きする鍵となるのがおじいちゃんの言葉。「この島ハ九生如来の御再誕なれば」ということになります。仏さまという方はいろいろな姿をお持ちになるものなのですが、九つの生を持っておられるのでしょうかしらね。本地(神様の正体)が阿弥陀如来さまなのだそうです。阿弥陀さんは四十八の誓いをおたてになったのですが、その中の一つが「女の人も成仏させてあげるぞ」というものなのです。それで、女の人もわけへだてなく島へ入れてくれるのですね。いやぁ、いい人だ。 しかし。竹生島縁起を読むと、竹生島というのは浅井姫命で、彼女はお釈迦さんの化現(仮の姿)だと書いてあります。うーん… 梅子、困りました。この矛盾はまた調べな直さねば。ま、お釈迦さんでも、女の人を差別しなかったのならとりあえずはいいのですけど。 お能の謡にはいろいろな仏さまや神さまが出てくるので、私、梅子はとてもうれしゅうございます。楊柳観音は人々に功徳のある水をふりかけてくださいますし、千手観音は千もある目と手で苦しみ悩む人々を見つけ、助けてくださいます。子守勝手の神さまに蔵王権現… ありがたいものですね。それではまたどこかでお会いしましょう。オホホ。
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