■第三回 あやめ会■
平成十一年五月三十日(日)午後二時始
連吟 鶴亀 仕舞 小鍛冶キリ 経正キリ 松風 天鼓 素謡 羽衣 仕舞 嵐山 田村キリ 胡蝶 猩々 連吟 竹生島 仕舞 花月クセ 敦盛クセ 杜若キリ 鞍馬天狗 附祝言 終了予定 午後三時半頃
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連吟・鶴亀 正月です。正月はめでたいものです。めでたい時には宴は付き物です。中国の唐、玄宗皇帝の時代も例外ではありません。今日は月宮殿という、皇帝権力の大きさがよく分かるすばらしい建物にて正月のお祝いをしています。なんと集まったのは一億人以上。人々は月宮殿を称え、皇帝陛下を称えます。そして恒例となっている鶴と亀の舞が始まるのです。長寿の象徴である彼らは皇帝が長生きできるように参向します。浮かれた皇帝は自らも舞うことにします。月宮殿は美しいし、鶴と亀は長寿を授けてくれるし、正月はめでたいし、国は豊かだし。御満悦の玄宗皇帝は思う存分に舞って、おうちに帰っていくのでした。
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仕舞・小鍛冶キリ このお話には、実在した名工、三条 ある日、宗近さんは一条天皇からの勅命で、夢で御告げがあったから剣を一つ打ってくれ、との事を勅使に伝えられました。 しかーーし、困った宗近さん。相槌を打つのに相応しい者が居らぬのです。 そこで、宗近さんは悩みつつ稲荷明神にお参りに行きました。 するとまぁ、どこぞからかぼっちゃん(童子)が現れまして、著名な剣の話を語り、きっと宗近さんも立派な剣が打てるさ、と励ますと、祭壇の準備をしておくように言い残して、稲荷山へと消えてしまいました。 宗近さんは言われた通りにし、天を仰いで祈りました。とそのとき! 現れ出でたるは稲荷明神! 宗近さんの打つ槌にちょうちょうと相槌を打ち、あっという間に立派な剣を打ち上げちゃいました。 稲ちゃんはその剣を「小狐丸」と名付け、表に小鍛冶宗近、裏に小狐と銘を入れ、それを勅旨に捧げ持ちますと、 今回の仕舞では、勅使に御剣を捧げ、雲に乗って帰って行く場面を舞います。走ったり(?)跳ねたり元気で華やかなのは良いのだけれど、運動音痴な私には……。 とにかく、ぐわんぶわるにゃー!
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仕舞・経正キリ 平経正をご存知だろうか? かの有名な平清盛の甥であり、琵琶の名手でもあった。かつては絶大な勢力を誇った平氏一門。しかし清盛亡きあと、源氏一門との争いに衰亡する一方でもあった。戦より音楽を愛した経正は、混乱の中で琵琶の名器「青山」を失うことを恐れ、かつて仕えた法親王に返しに行ったのだ。見送られ戦場へ向かった経正は、一の谷で一門もろとも亡びるのであった。 能は幽霊って奴が好き(?)なので、主役が死んでもまだまだ話が続く。ある夜、法親王の命により経正の師である僧が彼を弔っている。「青山」を使っての音楽葬である。夜通しの弔いの中、現れたのは本人(の幽霊)。現世への未練のため成仏しきれずにいるのだ。「青山」の音は激しく、切なく、なおも響き続ける。その音に心をゆだねる経正に、再び修羅道の苦しみが訪れる。自らの苦しみもがく姿を人目にはさらしたくはない。そんな思いから暗闇を照らす燈火を吹き消し、そのまま消え失せてしまう経正。ここで能は終了である。
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仕舞・松風 昔、中納言・ 意味ありげに浦に立つ松があります。旅の途中のある僧は村人に「あの松には、何かいわれがあるのか?」と尋ね、それが松風・村雨姉妹の旧蹟だと聞かされ弔います。夕暮れ、一夜の宿を借りようと塩屋を訪れるとそこに二人の姉妹があらわれます。宿を借りられるということになり、僧は喜び、行平の歌を口ずさみ浦で松風・村雨姉妹を弔ったことを話します。それを聞いた姉妹は驚き自分達がその松風・村雨だと打ち明け、行平とのことを語り始めます。語っているうちに松風は思慕の念が募り、その形見を身に付け浦に立つ松を行平に見立て狂乱します。 実はこの演目、「 どうも、天狗の癖が抜けなくて乱暴な女の子になってしまう…。
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仕舞・天鼓 ここに一つの悲劇があります。 今は昔。場所は中国。 そうしてそれ以来です。天鼓の鼓を誰が打っても決して鳴らなくなったのは。 さて、その鳴らない鼓を打てと皇帝が使いをやったのは天鼓の父・王伯。王伯は参内を渋りながらも、わが子を失った悲しみを込めてついに鼓を打ちました。すると、天鼓が死んでからも少しも鳴らなかった鼓は美しく澄んだ音色で鳴ったのです。 これにいたく心を動かされた皇帝は王伯に宝を与え、呂水のほとりに鼓をおいて天鼓を弔うことにします。 夜になるとそこに天鼓の霊が現れて、弔いを感謝しながら大好きな鼓を打ち鳴らしては川面に舞い遊びます。そして夜が明けると幻のように消えてしまいました。 悲しい話なのですが、私が舞うのは天鼓くんの喜びの舞なのです。弔ってもらった喜び。鼓が打てる喜び。…そしてそりゃあうれしそうに駆け回るんです。天鼓くんはともかく、生身の人間にはかなり辛い運動です。 目指せ幽霊。 …………がんばります。
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素謡・羽衣 その日も良く晴れていた。とてものどかな春だった。俺は漁師仲間と一緒に三保の松原へ釣をするために出かけていた。 そこで浦の景色を眺めていると空中に花が降り、音楽が聞こえてきた。良いい香りまでする。ふと見ると一本の松の木に美しい衣がかかっていた。そんじょそこらにあるような衣じゃない。家宝にしようと手にしたその時、女の声が聞こえてきた。その衣は自分のだ、天のものだ、返してほしいとのことだった。女は天女だったのだ。俺は天女の衣だと知ってますます手放すのが嫌になった。天女は羽衣がないと天に帰ることが出来ないという。その悲しむ姿はあまりに痛々しく、見ていられないほどだった。俺は仕方なく羽衣を返してやることにした。しかしただで返してやるのは惜しい。交換条件として有名な天女の舞を見せてもらうことにした。もらい逃げ防止のために返却は後だと言うと、いや疑いは人間にあって天に偽りはないのだ、と天女。その言葉に俺は天女を疑ったことを恥に思い、先に渡すことにした。羽衣を身につけた天女の舞は本当に素晴らしかった。そこにありながらこの世のものではないかのようだった。三保の松原の春を歌い、羽衣をなびかせ、地上に宝を降らす。約束通りの美しい舞を見せた後、天女は霞に紛れて天に帰っていったのだった。 いわゆる羽衣伝説です。たいていの人が一度は目にしたことがあると思います。全国各地にいくつかあり、その内容は少しずつ違います。財産を蓄えたり、子供を産んだり、七夕行事の由来になったり、様々です。その点能楽『羽衣』のストーリーは至って単純です。天女は天女のまま、下界のものとは一線を引き、ケガレを知らずに天に帰ります。美しく純粋な天女の舞が最大のテーマなのです。今回のあやめ会では素謡なので舞や天女の姿は見せられないけれど、その美しい歌を謡います。古今和歌集から引き出された言葉も綴られています。百人一首で有名な「天つ風雲の通い路吹き閉じよ…」という句も含まれていますので、聞き逃さないように注意して耳をそば立てていてください。
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仕舞・嵐山 「我々は勅命によって嵐山の満開の桜を見に来たのです。」 「わしらは花守りの夫婦や。ここの桜はみんな神木やねんで。」 「なぜみんな神木なのですか?」 「かの有名な吉野の千本桜をこの嵐山に移したときにな、木守勝手の神も一緒に来たンや。風に負けず花が散らんように守っているンや。実はな、ここだけの話、わしらが木守と勝手の夫婦の神やねん。おっと声が高かった、内緒やで、人にゆうたらあかんで。」 花守の老夫婦は正体を現し、木守明神・勝手明神となって、めでたくも神遊びする。そこへ、蔵王権現は烈しい勢いで現われる!(今回の仕舞はここからの部分です。) 仏のその本体の威光を和らげ神の姿となって、「私は仏世界を離れ娑婆世界にやって来たのだ。」金剛界と胎蔵界(曼陀羅でおなじみ)の両界を具有する蔵王権現は片足を宙に挙げ(蔵王権現ポーズ)、「前世の悪事のために受けている苦しみから人々を助ける!」虚空に御手を挙げて(再び蔵王権現ポーズ)、「苦悩に満ちた海の如き人間世界の煩悩を払いのける!」魔を退ずる青蓮まなざしは光を放って国土を照らし、人々を守る誓いを象徴する神姿を見せて、木守・勝手と蔵王権現とは、同体で名が異なるだけなのだと示す。そして、嵐の山によじ登り、花に戯れ、梢に翔って、吉野の主峰の金峰山の名のごとく、この嵐山の千本桜も光り輝くのだ。なんと、めでたい春よ!(でも、季節はずれ・・・。)
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仕舞・田村キリ 坂上田村麻呂。この人は凄いのだ。 身長・五尺八寸(176cm)、胸の厚さ・一尺二寸(36cm)、眼差しは鷹のごとく、鬚は鉄線を編んだような剛毛。天下の一大事とあらば体重は二〇一斤(120kg)になるが、軽く、と思えば意のままに六四斤(38s)まで自由自在。目を怒らして見れば猛獣も尻尾を巻いてひたすら平伏、だが、普段見せる笑顔には老人も赤ん坊も親しみを感じ一緒に笑い出すといった有様。あっぱれ、征夷大将軍。 さて。仕舞は鈴鹿の鬼退治。正義の味方田村麻呂、千手観音の御加護を得、威力は更に満ちみちて、向かう所に敵はなく、群がる鬼人を残らず滅ぼし、かくて平和は守られた。 この話はフィクションです。田村麻呂は鈴鹿山に悪者を退治しには行っておりません。でも、こんなお話が後の世に伝わりました。それは、交通の要所・鈴鹿の関には人もカネもモノも集まるため、山賊盗賊の類が跳梁跋扈しており、人々が困っていたからでしょう。悩まされ続けてきた民衆の願いが心の拠り所となるスーパー田村麻呂像を生んだのです。 土山町に田村神社があります。旅行く人々が道中の無事を祈り、感謝したのでしょうね。実は私、二月の厄除祭の時に出るという「蟹が坂飴」が気になっているのです。情報求ム。
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仕舞・胡蝶 梅の花が満開です。梅はどの花よりも早く、まだ肌寒い時期に咲きます。おかげで蝶の皆さんとは仲良く戯れることが出来ません。凍えてしまいますものね。おや、都へやってきたお坊さん何やら一条の大宮の梅下で地元の女性と話しています。いろいろお坊さんに教えてあげています。感心したお坊さん、女性の名を尋ねます。え? 実は私胡蝶の精だったのです? 美しい四季折々の花達と戯れ暮らしておりますが、梅の花と縁を結べないことが唯一の悩み、だそうです。彼女は梅についての故事を語ったり、物語を歌い、そのまま消えてしまいます。 お坊さんは彼女のために梅下で独経します。やがて夜になりました。おや? いつの間にやら訪れたのは…胡蝶の精です。なんと美しい姿。それにとても幸せそう。彼女が言うことには、お坊さんと仏様の御加護によって愛しい梅の花とも仲良くなれたそうです。感謝感激雨あられ、仏様ってありがたいですね。彼女はぞんぶんに梅の花と戯れた後、霞に紛れて夜明けとともに消え去っていきます。あな、めでたやめでたや。
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仕舞・猩々 猩々。それは波を蹴って舞い戯れる水の妖精……。んでもってお酒好きなの。少年の姿をしているって言うけど、妖精には未成年なんて無いのでしょうねぇ。そんなことはさて置き。 昔々、中国は揚子の里に ある晩、高風は不思議な夢を見ました。揚子の市に出てお酒を売ったらお金持ちになれちゃうよ、というのです。 夢の教えの通りにお酒を売りますと、みるみるどんどん本っ当ーに大金持ちになっちゃったのです。羨ましい限りですわ。 ところで、毎回市に出てきてはお酒を飲んで帰って行くという不思議なお客さんが居たのですが、まぁ、その人、いっくら飲んでも顔色一つ変えないのよ。不思議に思った高風は、このお客さんに興味を持ち、名を尋ねました。お客さんの名前は猩々。どうやら海に住んでいるそうです。 高風は猩々と潯陽の江で会う約束をしました。秋ですから菊の花とお空の月がきれいでねぇ、高風は一杯やりながらお相手が来るのを待ちました。 そこへ現れた猩々は、高風の用意した美味しいお酒を飲んですっかりごきげん! 気持ち良くぴらぴらと一舞しますと、高風に「汲めども尽きず。飲めども変わらぬ」不老長寿のお酒をプレゼントして、どっぽんと海に帰って行ったのでした。めでたしめでたし。
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連吟・竹生島 のどかなる春の日、醍醐天皇に仕える都人が竹生島へ参拝しようとしている。竹生島は湖の上にあるので当たり前だが船でないと行けない。(泳げば渡れるけど…。)都人が困っていると漁師の老人と娘が船で仕事をしている。頼みこんで都人は釣り船に乗せてもらう。やがて竹生島に着き、老人に島を案内してもらうが、女人禁制だと聞いていたこの島に娘も入ってきたことを不思議がる都人。老人に理由を説明してもらうと、この島の神様の弁天様も女性であるし、女性も成仏させてあげるという誓いを立てなさったからだとか。都人が納得したところで老人と娘は正体を明かす。なんと琵琶湖の主である龍神と、竹生島に住む弁才天だという。そう言い捨てて湖水へ、御殿の中へ消える二人。やがて夜になり、再び都人の前に姿を現した。娘は本来の姿である弁才天。神々しく、可憐に舞い遊ぶ。そこへ、波しぶき立てつつあらわれた龍神。都人に宝珠を与え、その大蛇のような姿で弁才天を見送った後、再び湖に帰って行くのであった。 琵琶湖は昔から、京都の水瓶だとか大阪の水瓶だとか近畿の水瓶だとかいろいろ言われております。皆さんどう思いますか? 一度琵琶湖の主、竜神様に聞いてみたいです。きっと私の守護する衆生(生命のあるすべてのもの)のものだ、と言われるのではないでしょうか。そう、琵琶湖は人間だけのものではないのですよね。
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仕舞・花月クセ 『花月』はとある旅の僧が清水寺に立ち寄り、案内を頼んだ寺近くの男に教えられるまま少年花月の芸尽くしを堪能する、というお話です。実は花月はその昔天狗にさらわれて行方知れずになった、僧の息子だったというオマケもついてきます。 ときに弓矢を持ち、また けっきょく、今年も清水寺の桜は見に行けませんでした。就職活動でそんな暇はどこにもない(泣)。 観音様にどんなに一生懸命お願いしても、きっと「桜の時期をずらして」なんていう自分勝手なお願いは聞いてくれないよなぁ。
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仕舞・敦盛クセ 平清盛の甥・敦盛が死後、幽霊となって出てきて昔を懐かしむ。仕舞は、都落ち後の平家一門の水面に漂う木葉にも似た運命を思い返している場面。絶頂期を知っているが故の深い悲しみか。自分一人がどう足掻こうとも世の流れは変えられない、という哀しみか。 無官大夫敦盛は一六歳の若い命を戦場に散らす。日本一の剛の者、熊谷次郎直実の呼び声に臆せず戻り、戦って。殺されたりとはいえ、これを敦盛の武将としての器量の現われと見ることも間違いではあるまい。 だが、敦盛の真価はやはり笛を吹くことにあろう。父・経盛は上代にも当代にも並ぶものとてない笛の上手とうたわれていた。経盛は、宋の国から砂金百両を出して買い求めた竹で、その中でも殊によい節を選び、高名な僧による七日七夜の加持祈祷の後に笛を作らせた。が、わずか七歳にして笛の才あり、と見こまれた敦盛が、その笛の持ち主となった。それが、 戦いの中に生きながらも笛を吹きつづけ、死んだ後も吹きつづける敦盛の心を、おもう。
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仕舞・杜若キリ 三河の国までやってきた旅の僧、満開のカキツバタがあまりにきれいなので立ち止まり眺めていた。と、その地の女が、ここは『伊勢物語』でおなじみの色男、在原業平が都を懐かしみ詠んだ超絶技巧な歌、「からころも/きつつなれにし/つましあれば/はるばるきぬる/たびをしぞおもふ」という「か・き・つ・ば・た」の折句であまりに有名な、八橋(和菓子ではない)なのですよ、と教えてくれた。二人は楽しく語り合い、僧は彼女の家に一晩泊めてもらうことになった…のだが、夜半過ぎにいきなり、彼女は「ねえねえ見てみて、この冠と唐衣を!」ときたものだ。粗末な小屋に似合わぬ輝く衣と冠に、驚愕した僧は「いったいこれはどういうことなのですか!? あなたはどういうお方なのですか!?」 「この 業平は、二条の后藤原高子との許されぬ恋が露見して都を逃れた。そしてこの地で、彼女を想ってあの歌を詠んだ。杜若は二条の后の形見の花だ。杜若の精と名乗る女はいったい誰なのか。 彼女は語る。業平は歌舞の菩薩の仮の姿、彼の詠んだ和歌は御仏の言葉、彼が数多くの女たちと契ったのは女人成仏の菩薩行をなすため。 彼女は舞う。杜若・花あやめを眺め、梢を見上げては蝉の声を聞き、形見の衣の袖をいとおしげに見つめ、女であり草木である私までが成仏できるという仏法に感謝しつつ、朝の光の中に消え失せる。(今回の仕舞はこの部分です。) ――極めて中世的な物語の光景といえるだろう。それにしても、ねえ。(えっ?)
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仕舞・鞍馬天狗 二度あることは三度ある。三度目の正直というか、とにかく三度目の鞍馬天狗である。(ホントは、色々なところでこの演目を舞わせてもらってるのですが、原稿付きでの出演はこれが三回目です。) さて、僕が舞う役は、鞍馬山に住む大天狗です。あの源義経の幼少の頃、彼がまだ牛若丸と名乗っていた頃の話です。 春、鞍馬山で花見をしている一行がいました。寺の稚児達(牛若も含む)と東谷の僧御一行です。その一行が楽しんでいる中へ部外者の山伏(天狗の仮の姿)が現れたため興が冷めた、と牛若を残して皆去ってしまいます。(つれないね〜。天狗だって花ぐらい見たいさぁ…。)残されたもの同士、牛若と山伏はともに語り合い、時を過ごしている内にすっかり打ち解け、互いに正体を明かします。牛若は自分が源氏の者であると、山伏は自分が人間ではなく天狗であると。(この頃は、平氏全盛の時代。ゆえに、「自分は源氏のものだ!」ということは大声では言えなかった。)そして、大天狗は兵法を伝授しようと約束したのでした。 後日、大天狗は約束どおり牛若に兵法を伝授し、平氏討伐の折には手助けをし、どの戦でも側に居て力を貸そう、と約束します。いよいよ二人にも別れの時がきました。別れる悲しみに耐え切れず泣きつく牛若。天狗は心を鬼にしてそれを振り払い、鞍馬山へと帰って行きました。(でも、結局この約束は果たされることはありませんでした。やはり、人間の争いは、人間同士で解決しなければいけないということなのでしょうか…。)
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附祝言・高砂 「高砂」と聞いて何を思い出しますか? やっぱり「結婚式」だと思う人が多いはずです。「高砂や。この浦船に帆をあげて〜」とよく結婚式で謡われるらしいのですが、私は一度も行ったことがないので直接聴いたことはありません。さて、結婚式場の名前にまでなる『高砂』、そのストーリーを申しますと。 阿蘇の宮の神主である友成さん、お供を連れて京都見物に出かけております。その途中、高砂の浦でかの有名な松の木を見物します。そこには一組の老夫婦が仲良く掃除をしています。友成さん、老夫婦に尋ねます。どうしてこの高砂にある松と、遠く離れた住吉にある松は二本で一組、「相生の松」と呼ばれているのですか、と。それに対し、愛し合う夫婦には距離など何の意味もない、だから松の夫婦であるこの二本は「相生」なのだ、と尉。老夫婦は松のいわれも友成さんに語ってくれます。その博識ぶりに感心し、名前を尋ねると何と二人は人間ではなく、「相生の松」の精だといいます。尉は住吉、姥は高砂に住む松だそうです。尉は友成さんを住吉へ来るように誘い、小船に乗り海へ去ります。誘われるままに友成さんは船出し、住吉に到着します。そうしてそこで住吉明神の舞を見せてもらいます。さわやかな気分のまま、物語は終了します。 今回謡うのは終わりの終わりのほんの一部。お相撲でも有名な「千秋楽」という言葉から始まります。分かりやすいですね。
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