第四回 あやめ会


成十二年六月三日(土)十四時始
於 彦根城博物館能舞台
 第四回 あやめ会

 連吟 竹生島

 素謡 鶴亀

 仕舞 嵐山
    敦盛キリ
    花月クセ

 素謡 大仏供養

 仕舞 経正クセ
    杜若キリ
    花月キリ

 素謡 羽衣

 仕舞 経正キリ
    松虫キリ
    鞍馬天狗

 附祝言
 終了予定 十六時頃

主催 滋賀県立大学能楽部
指導 深野新次郎



吟・竹生島


  ……元々、御仏には衆生を救うという誓いがございました。ですが、衆生の願いは種々様々ありますので、たった一人ですべてを叶えることはできません。
 そこで、分身をお作りになり、それぞれが弁才天や龍神の姿となって願いを叶え、国土を鎮護なさることにしたのです。
  弁才天は竹生島にお宮を、龍神は琵琶湖に竜宮を持っておられます。龍神が配下を従え、湖面を蹴立てて飛び立つと、水が大きく返されて波がおき、その様子は大蛇が天にも地にも充ちているようなのでございます。

  弁才天は日本では知恵の神。転じて財力の神(弁財天)ですが、元を正せば、古代インドの豊穣神・サラスヴァティー。一方の龍神は東洋では水を司り、雨を降らせる存在です。どちらも穀物を育むには必要な神様なのですね。ということは衆生の願いの根本は「豊作」ということでしょうか。

<五期生 T.Y>



謡・鶴亀


  「鶴亀」と聞いただけで、もうおめでたい気がします。その通りで、これは古代の荘重な宮廷行事を能楽化したものです。そしてこれは、現行曲のうち本文が最も短く、謡を習う人が、まず第一に稽古する入門曲として親しまれています。その内容とは・・・・・・。
  昔、唐土(中国)では年の初めに、華麗な月宮殿で、四季の節会の最初の儀式が行われていました。まず、官人が出てきて御代を讃え、皇帝が宮殿に御幸なさる由を触れます。皇帝は大臣たちを従えて登場し、群臣からの拝賀を受けます。次いで大臣は毎年の嘉例のように、鶴亀を舞わせることを申し上げます。池の水ぎわに遊ぶ鶴と亀は、皇帝の長寿を讃えてめでたく舞い納めます。すると皇帝も喜び、国土の繁栄を祈って、自らも舞い、やがて長正殿へと帰っていきます。
  月宮殿の豪華さは、想像できないくらいです。庭の砂は金銀で、扉は錦や瑠璃でできていて、橋はメノウです。月宮殿という名前に負けずに輝いていたのでしょうね。
  この能での皇帝は玄宗皇帝ということになっていますが、謡の本文では誰とも明示されていません。玄宗皇帝といえば、息子の嫁である楊貴妃を奪って堕落していったことで有名です。私の中での玄宗皇帝はそのイメージしかありません。しかし、堂々たる貫禄のある賢王でもあったのですね。

<五期生 R.T>



舞・嵐山


  「花に嵐」といえば「良いことにはとかく邪魔が入る」ということですが、嵐山は桜の名所です。
  時は嵯峨天皇の頃。このころには都は平安京でしたので、桜の名所である吉野山は、天皇が花見をなさるにはちと遠い。そこで、ほど近い嵐山に千本の山桜が植樹されたのです。
  ところが、我々の知らぬ間に神様まで一緒に来ていたのです。老夫婦に身をやつし、桜の周りを掃除しているのは子守・勝手明神。本来なら金峰山においでの蔵王権現は三つの眼から降魔の光を放ち、衆生の罪業を、煩悩を払おうとしています(この三柱の神々は、元を正せば一体の仏様なのです)。桜と神々、吉野の金峰山がそのまま移ってきたようではありませんか。神々は正体を現すと、桜に戯れ、春を愛でて消えていきます。
  「嵐」の山に桜が咲くのは何故かって? それは平和な治世が続いているので、神徳によって嵐であっても桜が散ることはないからなのです。きっと蔵王権現が邪気や魔障を払っておられるのでしょう。
  今年は開花が少し遅れましたが・・・・・・まさか、治世のせいではないですよね。

<五期生 T.Y>



舞・敦盛キリ


「因果は巡り逢いたり。敵はこれぞと討たんとするに」
  かつて一ノ谷の合戦で、自分が討ち取った平敦盛を弔う回向をしている蓮生(れんせい)法師の前に敦盛の霊が現れ、平家の衰退の様を語り、亡くなる前夜の優雅な夜遊の舞を見せた。その後、一変して、蓮生との激しい戦いの様子を見せ、討ち取られた恨みから蓮生に襲いかかってきた。そのあまりに荒き勢いに、蓮生は思わず目を閉じる。
  しかし、目を開けた彼の目の前で敦盛は振り上げた太刀を静かに下ろす。かつて敵であったとはいえ、今は自分の菩提を弔ってくれている蓮生に、敦盛はもはや敵ではなく、共に成仏できる友として許していたのだ。敦盛は蓮生に、この後も自分の菩提を弔ってくれるように頼み、姿を消した。
  敦盛が消えた後、蓮生は、敦盛を討ち取り、その事を悔やんだ時のことを思い返した。戦とはいえ、まだ若かった青年を手に掛けた、という言い表せぬ無情感。そして、消える前に自分に回向を頼んでいった敦盛の表情……。
  蓮生は数珠を握ると、再び経を唱えるのだった。

<五期生 A.M>



舞・花月クセ


   [花月物語・前編]
  筑紫の国、彦山麓。ある日七才の少年が姿を消した。寺子屋からの帰り道に硯一つを残して。人は天狗にさらわれたのだと噂しあった。父親は天涯孤独の身となり、俗世を捨て出家して旅に出た。
  そして数年が過ぎ去り、頃はおりしも桜の季節。桜の名所と名高き京の清水寺で、僧は花月という遊芸の巧みな喝食(かっしき)(修行僧候補生)に出会う。
「さて、この清水寺は。坂上田村麻呂が大同二年の春にお建てになって以来……」
  少年は寺の縁起を謡い、舞い始める。

  清水寺の名の由来となった清らかな水の話。ある時、瀧の水が五色に見えたので、その水上を訪ねて山に分け入った。上流にある岩の洞には、青柳の朽木があり、その木からは光と妙なる香りが放たれていた。まさしく、楊柳観音の化現である……

  謡い舞う花月を見るうちに僧は思う。息子も生きていればこれくらいの年になるか……清水寺は千手観音の霊場。その千の御手でなにとぞ、息子に御加護を……
「! この子は……もしや息子では?」
  果して花月は僧の息子なのか? 真相は如何に! 後編に続く。

<一期生 R.M>



謡・大仏供養


  東大寺の大仏供養に源頼朝が来るらしい。
  この話を聞いた平家の侍、悪七兵衛景清。源氏への恨みを忘れず、身を忍ばせて頼朝を狙っていた彼は急いで奈良へ向かった。

  景清が奈良へやってきた理由はもう一つあった。若草山の近くにすむ母を訪ねることだった。景清の訪問に母は驚いたがとても喜んだ。しかし母はある噂を耳にしていた。景清が頼朝を狙っている、という噂だった母にそのことを尋ねられた景清は言った。頼朝を討つ事で西海で滅んだ平家一門の弔いになるのだ、と。母は思いとどまるように説得したが、景清の決意は固かった。夜明けと共に立ち去る景清。見送る母。二人とも、涙を流さずにいられなかった。

  大仏供養の日。奈良は衣を着飾って、物詣に出かける人でいっぱいであった。頼朝を狙う景清の心は場違いであった。春日大社の宮人の姿をして景清は頼朝に近づく。しかし頼朝の家来の者に脇から見えていた鎧の金物を見咎められてしまう。返答に詰まった景清は、いったん逃げようと人影に隠れていった。

  東大寺はにわかに騒然となった。そして景清を討ち取れ、との命令が警備の者たちに下った。この様子を隠れて見ていた景清は、もはや頼朝を討つことは不可能に思われた。しかしこのまま逃げては武士の恥である、せめて一太刀は打ち合ってから逃げ、再びその時を待とう、と景清は考えた。そして警備の者たちに向かっていったのである。しかし多勢に無勢。景清一人でなんとかできるものではなかった。それでも景清は一人の若武者を倒したが、もはやこれまで。霧立ち隠すや春日山。次こそは頼朝を討つ。そう言い残し、景清は消えていったのだった。

<五期生 H.Y>



舞・経正クセ


  舞の内容については『経正キリ』のページで紹介するとして、ここでは平経正(たいらのつねまさ)とはどのような人物であったか紹介します。
  生誕日は不明。平清盛の異母弟である平経盛の嫡男で、笛の名手であった平敦盛の兄にあたり、琵琶の名手として有名です。幼児期は、稚児として仁和寺の覚性入道親王に仕えておりました。成人してからは淡路・丹後・但馬守を歴任しています。
  寿永二年(一一八三年)源義仲征討の途中琵琶湖の竹生島で琵琶の秘曲を奉納した話は有名です。このことから竹生島は、平曲(平家琵琶ともいう。日本の琵琶楽の一種)家の間で重んじられることになりました。経正一門都落ちの際には、琵琶の名器「青山」が戦の途中に失われる事を心配し、親王に返上しました。「青山」を自分の所有物と見なさず、残すべき大切な宝と考えていた誠実な人物であったであろうことが、伺えるエピソードですね。
  都落ちし、激しくなる源平の戦の中、遂に一一八四年二月七日に一ノ谷の戦いで討たれ、その生涯に幕を閉じました。

<五期生 A.M>



舞・杜若キリ


  私は諸国を巡る僧です。都を出てはや数日、三河の国につきました。沢辺の杜若(かきつばた)がとてもきれいなので、ひと休みしていた時、女性が声を掛けてきました。
「ここ八橋の杜若は特別なのです。昔、在原業平(ありわらのなりひら)がここで《らころも/つつなれにし/ましあれば/るばるきぬる/びをしぞおもふ》という杜若の五文字を一句一句の頭においた見事な歌を詠んだからなのですよ」
  そうして私は、親しくなった彼女の家に泊めてもらうことになりました。ところが。彼女は粗末な家に不似合いな、美しい衣と冠をつけて登場してきたのです。びっくりして尋ねると彼女は言いました。
「この衣はさっきの歌に詠まれた業平が愛した女性の御衣です。冠は彼のもの。実は私は杜若の精なのです。業平は歌舞の菩薩の生まれ変わりでした。ですから、ひろく衆生を救い利益を与える為に旅をしたのです。また彼の詠んだ和歌は経文そのものであり、おかげで私のような非情の草木に至るまで成仏できるのです」
  さらに彼女はその衣の袖を返し(・・)て舞うことで、業平の思いを返し(・・)たいと言い、舞い始めました。そのうち夜もしらしらと明け、まさに「草木国土悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」のままに消えていったのでした。

<五期生 H.Y>



舞・花月キリ


   [花月物語・後編]
  似ている。……そして僧は尋ねた。
「君の出身はどこか、なぜ喝食(かっしき)に?」
「筑紫です。七つの時に彦山で天狗にさらわれて以来、諸国を廻っているのです」
  全てが符合した。
「……父上……」
  その時花月の心に去来したものは。天狗にさらわれてからの記憶と、眼前に父がいるという現実との狭間で立ちすくむ花月。おそろしかったのか? 辛かったのか? それとも悲しかったのか? 押し寄せる記憶の波に花月は身を委ねる。

  筑紫の彦山に始まり、松山、大山、鬼ヶ城、愛宕山、比良山、比叡山、葛城山、大峯山、富士山……。天狗にさらわれて僕の棲家は山や雲の上となった。感情の上限を振り切り、心はどこかへ行ってしまった。いつしか(ささら)(楽器の一種)を擦っては謡い、舞うことを覚えた。そうやって暮らしていた。そして、山々、嶺々、里々を廻りに廻って、今ここで父上に……。
  そうだ、この僕の今までの流転の証しともいうべき簓を。たった今、サッと捨ててしまおう、そうして。
  僕はまた旅に出る。今度は仏道修行の旅に。父上に付いていこう、どこまでも。

<一期生 R.M>



謡・羽衣


「自分は三保の松原に住んでいる、白竜という名の漁師です。今日はとてものどかで気持ちの良い日です。さあ、張り切って釣りに出かけましょう。あれ、あの松に見たこともない美しい衣がかかっている。うわぁ、なんてきれいな衣だ。持って帰って家宝にしよう」
「ねぇねぇ、その衣はあたしのよ。なにしようとしているの」
「これは自分が拾った衣だから、もらおうかと……」
「それは天人の羽衣なの。人間が持つべきものじゃないのよ。返してちょうだい」
「ええっ。それじゃあ君は天人、これは天人の衣か。それを聞いてますます返したくなくなった。返すもんか」
「それがないとあたしは天に帰れないのよ。しくしく。しくしく。しくしくしくしく……」
「そんなに悲しまなくても……。仕方ないな、返すよ。その代わり、とても美しいという天人の舞楽を見せてくれよ」
「ああ嬉しい。これで天に帰ることができるわ。舞くらいいくらでも見せてあげるわよ。でもその衣がないと出来ないわ。まず返してちょうだい」
「いや、この衣を帰したら君はすぐ天に飛び立ってしまうだろう。返すのは後だよ」
「ひどいわ。人間はそうじゃないでしょうけど、天人は決して嘘をつかないのよ」
「うーん。そうか。疑って悪かった。衣を返すよ」
「ありがとう。さあ、謡って舞うわよ」

  こうして天人は衣をまとって美しい舞を披露した後、天に昇っていき、やがて大空の中に消えていったのでした。

<四期生 K.K>



舞・経正キリ

  仕舞としての『経正』には、『経正クセ』と『経正キリ』とがあります。「用語解説」を読んでいただければわかりますが、クセとは能での盛り上がり部分、キリとは終わりの部分です。
 先ほどの『経正クセ』の説明で、経正という人物を愛せるようになったでしょう。それでは舞の内容を解説していきましょう。

  経正が一ノ谷で討たれてしまったことを非常に悲しんだ親王は、経正にお預けになったことのある琵琶「青山」を仏前に供え、管弦講を催して回向するように、行慶僧都に仰せつけました。
  行慶は、管弦を奏する人々を集めて法事を行います。するとその夜更け、経正の亡霊が幻のように現れ、御弔いの有難さにここまで参ったのである、と僧都に声をかけます。
  そして、手向けられた琵琶を懐かしく弾き、夜遊の舞を舞って興じます。しかしそれもつかの間、やがて修羅道での苦しみにおそわれ、憤怒の思いのままに戦う自分の姿を恥ずかしく思います。そして夏の虫のように、身をもって灯火を消して闇の中に消え失せるのです。

<五期生 R.T>



舞・松虫キリ


  秋に、風、虫の音に揺られながら咲く、淡い青紫の花がある。松虫草という名の花である。その名前の由来は、能楽『松虫』によるという説もあるそうだ。

  阿倍野の市で酒店を営む者がいた。亭主は、ある男に次のような話を聞いた。

――昔、摂津国阿倍野(現・大阪市住吉区阿倍野町)の原を二人の親しい友人が通った。その原は、ささやくような虫の音に満たされていた。それに誘われ一人の男は草むらに入って行き、死んでしまった。連れの男は悲しみ、その場所で、鳴き止まぬ虫の音に包まれながら友の亡骸を埋めた――

  話し終えると男は、自分が〈連れの男〉だと語り、立ち消えてしまった。

  亭主は、原で弔いをすると、その声に誘われるかのように、再び男の亡霊が現れ、友との情を謡う。「り〜んりん、り〜んりん」、友を偲ぶような虫の音に合わせて彼は舞う。鐘が鳴ると、東の空は明るみ、名残惜しげに彼は消えてゆく。後に残るのは、草茫ぼうの阿倍野の原と鳴き止まぬ虫の音だけであった。

<二期生 T.O>



舞・鞍馬天狗


  おうい、沙那王(牛若丸の修行時代の名)殿、武術の修行は順調に進んでおられるか。そなたはすでに奥義木の葉隠れや霧の印まで覚えられた。さすがおごり高ぶる平家を滅ぼすであろう、と私が見込んだだけある。さきほど配下の小天狗を稽古相手に送ったのだが。なに、軽く斬りつけることはたやすいことであったが、そんなことをすれば私が叱ると思い、控えた、とな。おお、なんと師匠思いのかわいい弟子であられるのか。
  師匠思いと言えば、こんな話をご存知か。昔漢の高祖の臣下で張良という男がいた。ある日、兵法の師匠である黄石公が馬の上から左のくつを落とし、「あのくつを取ってきて履かせよ」と言った。彼は腹立たしく思いながらもその通りにした。また別の日、今度は右のくつを馬の上から落とし、同じように取ってきて履かせるように公は命じた。彼は今度もその通りにした。このことから公は張良に奥義を伝えることを決心したのである。
  そなたも彼のように師匠思いであり、奥義を会得しようとする並々ならぬ気持ちがあること、私は良く知っているつもりだ。ここ鞍馬山を離れても平家を平らげるその日まで私はそなたを守護することを誓おう。決して忘れてくれるな、沙那王殿。

<四期生 K.K>



祝言・岩船


  金銀財宝がどっさり積んである、岩でできた船? そんなの沈むにきまってます。ところが、この話に出てくる岩船は沈まない。それもそのはず、この岩船は、天岩舟(あまのいわふね)という天の船だったのです。
  昔、日本の仁政をよしとした天が、この太平の世が末永く続くようにと、祝いの意味を込めて、船にたくさんの財宝と使いを乗せて運んできたのです。しかも、船の守護には、龍神とその配下の八大竜王が付き従っているという、まさに壮大稀有な様子! こんな様子を見た日にゃあ、おめでたすぎて、天にも昇ってしまいそうになること請け合い! ……って、誰ですか、宝だけ欲しいなんて、思ってるのは? 兎にも角にも、無事に運ばれてきた宝を下ろした彼らはこの太平の世を祝福してくれたのです。
  こんなめでたいお話を附祝言として、この会を終わるなんて贅沢ぅ!

<五期生 A.M>



能でワハハ・その1 いづれアヤメかカキツバタ


  アヤメ・・・・・・この「あやめ会」のシンボルとも言える花ですね。アヤメの咲く季節にやるから、あやめ会。本日の公演では仕舞に『杜若キリ』もありますし。「いづれアヤメかカキツバタ」とは、どれも優れていて、選び出すのに困ることの例えです。昔も、アヤメとカキツバタを見分けるのは大変だったようです。
  源頼政は酒呑童子討伐(『大江山』)や土蜘蛛退治(『土蜘蛛』)で知られる武将・源頼光の子孫です。破邪の血筋は受け継がれ、近衛天皇の頃、「鵺」という妖怪変化を退治します(『鵺』)。鳥羽上皇はその褒美として、頼政が思いを寄せていた女官・菖蒲前(あやめのまえ)を賜ることにしました。でも、普通に授けるのはつまらない。上皇はそう思ったようで、菖蒲前によく似た女官を数人選びだし、同じ格好をさせたうえで頼政に菖蒲前を探すように仰せられます。さしもの頼政も困り果て、
五月雨(さみだれ)に沢辺のまこも水たえていづれ菖蒲(あやめ)をひきぞわずらふ
と詠みました。上皇は御感のあまり、自ら菖蒲前の手を引き、頼政に授けたということです。
  さて、私たちは歌が上手いわけではないですし、アヤメも植物ですので、このようにはいきません。見分ける方法を教えましょう。
  まず、アヤメ。乾燥した所を好むようなので、陸に咲いているのは、アヤメだと思いましょう。薄紫の花びらです。カキツバタは湿地。池の中に咲いているのもこちらでしょう。花びらは鮮やかな紫で、先端のほうが少しとがっています。ハナショウブは主に湿地に生えているので、カキツバタと見分けるのが難しいのですが、花びらが大きいようです。そしてキショウブ。これは黄色い花を付けるので、一目瞭然ですね。明治時代頃に輸入された、帰化植物なのです。玄宮園にも咲いていましたね。ちなみに、端午の節句に菖蒲湯にするショウブは、アヤメグサと呼ばれていたこともありますが、サトイモ科の別の植物なのです。

<五期生 T.Y>



能でワハハ・その2 景清も 花見の席では 七兵衛

  壇ノ浦で壮絶な最期を遂げた平家。ですが、復讐を誓って逃げ延びた武将もいた。悪七兵衛景清もその一人。上総介忠清の七男で、兄・五郎兵衛忠光などと並び称される、平家一門の勇士です。「悪」は豪傑の愛称(?)で、源頼朝の兄にも悪源太義平という人がいます。
  さて、景清の祖先は藤原南家の出身藤原秀郷。三上山(野洲町)の百足退治の俵藤太としても知られていますね。おや? 藤原? 平家一門なのに藤原氏なのは不思議ですね。ここで『大佛供養』を思い出してください。頼朝は「そもそもこれは源家の監軍。右大将頼朝とは我が事なり」と名乗っています。〈源氏〉じゃなくて〈源家〉。推理できますね?〈平家〉には平氏の他に、藤原氏もいたのですね。当然〈源家〉の中には北条氏なども含まれるのです。秀郷は承平・天慶の乱のとき、平将門と対立していた平貞盛に加勢しました。この貞盛が後の伊勢平氏となるのですな。後の保元の乱に、忠清が昔のよしみで加勢したため、上総藤原氏は平家一門となるのです。
  さて、『大佛供養』では頼朝を討ち漏らしまし逃走しましたが、『景清』では盲目となり、日向国(宮崎県)に隠遁しています。盲目と景清というのは関係が深いようで、琵琶法師の語る「平家物語」の作者に「悪七兵衛カゲキヨ」という人物がいたとかいないとか。宮崎には景清神社という、昔から盲人がお参りしている神社があります。盲目になった景清が、神社の井戸で目を洗ったところ、目が良くなった、という伝承があるのです。この伝承は全国各地にあるようで、何を隠そうこの彦根にも「景清の目洗い井戸」があるのです。雨壺山の東すそ、芹川町にあるそうですので、皆さんも探してみては?

  表題の意味
  「悪七兵衛と呼ばれた猛将・平景清も、花見の席となれば普通の七兵衛の名でおとなしく座に収まっている」という、ユーモアあふれる句。松尾芭蕉・作。

<五期生 T.Y>



おわり。