<第十三回・三月>
「二月の雪は衣に落つ。あら面白の花の匂やな。」
                           『弱法師(よろぼし)



  彦根ではまだ寒い日もありますけれど春は確かにやってきていますね。空の色、山の気配に心がくすぐられます。梅の便りもあちらこちらで耳にし、梅の春の遅い彦根でも花を咲かせ始めました。あらゆるものが縮こまっている冷え切った大気の中で皆に先駆けて花開き、清らかな香りで春の訪れを知らせてくれる梅の花が私は好きです。全山桜色に染め上げ見事に散る桜の花ほどの派手さはありません。けれど寒空に凛として咲く、そんな梅の佇まいがいとおしく心惹かれるのです。

  『弱法師』のシテはそんな白梅を思わせる少年です。
 
 
  ある年の暮れ、高安通俊はある者の讒言を信じて息子の俊徳丸を家から追い出しました。しかしほどなく後悔し、梅の咲く季節になって行方も知れぬ不憫な我が子の幸せを祈ろうと難波の天王寺で七日間にわたる施行を行っておりました。そこへこの界隈で“弱法師”とあだ名され評判になっている盲目の少年がやってきました。目が見えぬためによろよろと歩くところから人々に“弱法師”と名付けられていたその少年にも高安通俊は施行を勧めます。そのとき、弱法師の上に梅花が散りかかりました。

「二月の雪は衣に落つ。あら面白の花の匂やな。」

  「梅花を折って頭に挿めば 二月の雪衣に落つ」という漢詩からひいた言葉です。旧暦では一、二、三月が春にあたります。その真ん中の二月、春の盛りに落花する梅を雪にたとえているのです。
  梅の花は見えなくても梅の香りは届きます。その香りによって梅の花を見ているような心地がする、それと同じように盲目の身でも仏の教えから漏れることはないのだと天王寺のありがたさを説く弱法師。そんな少年を見つめているうちに高安通俊はようやく気付きました。この盲目の弱法師こそ、自分が追いやった息子・俊徳丸であるということに。
  人目を気にした通俊は日暮れを待って名乗りをあげることにします。日没を待つ間、通俊は弱法師に日想観を勧めます。日想観とは沈み行く太陽を見てその姿を心に納め、西方浄土を心に思い描く修行です。
  弱法師は天王寺の西門の外に広がり極楽浄土の東門へと繋がる難波の海を想い浮かべます。盲目となる前からよく知っているこの地の風景は今もはっきりと弱法師の心に見えるのです。難波江を照らす月、さざめく松風。淡路島から須磨明石までもがまざまざと。


見えたり見えたり。満目青山は。心にあり。おう。見るぞとよ見るぞとよ。


  身に覚えのないことで親に疑われ家を追い出されるという境涯に陥り、悲しみのあまり盲目となってしまった俊徳丸。彼は多くのものを失いました。しかしそれと引き替えにこの透徹した境地を得たのです。その姿を思うと寒さに身を振るわせつつも芳香を放って咲く白梅の姿と重なります。

  けれど、何もかもが見えているつもりで歩みを進める弱法師は行き交う人の波に突き当たり、名前のとおりよろよろとよろめいて転び倒れてしまいます。その姿を見て人々は笑います。弱法師は一気に現実に引き戻されてしまい己が身を恥じます。そこでようやく高安通俊は父であることを明かします。俊徳丸は恥かしさに逃げ出そうとしますが手を取られて父とともに家へと帰ります。そこでお話は終わります。

  私は何かを惜しむような心持で橋掛りを進む弱法師を見送ります。父・通俊とともに家に帰った後、俊徳丸は再びあのような境地――満目青山は心にあり、と言い切った境地になれるときがくるのだろうか、誤解がとけて家に戻れるのはよいことには違いないだろうけれど、と。
  散ってしまうものだからこそ美しいのが花なのでしょうか。


 「今月の謡」シリーズは今回で終わりとなります。一年間御愛読ありがとうございました。

<R.M>



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