<第二回・五月> 「 『 五月は、牡丹の花咲き乱れる文殊菩薩さまの浄土で勇壮に舞う獅子のお話、『石橋』を紹介します。しゃっきょう、と読みます。 俗名を大江定基といった寂昭法師が仏法修行のために日本を離れ、中国やインドへと渡りました。あちらこちらの仏跡を拝み、このたびは中国は清涼山にやってきました。清涼山といえば、文殊菩薩の霊地として名高いところです。清涼山へ入るには、自然にできた石の橋を渡っていかねばならないという話です。寂昭法師はどうやらその橋らしいものを見つけました。 寂昭さんは橋を渡っていざ文殊さんに逢いに行こうと思いますが、地元の人に留められます。その橋は橋とはいっても幅は一尺(30cmほど)もなく、苔がみっしり生えていてつるつる滑りやすくなっているうえに、橋の下は数千丈もの崖になっているのです。空中にかけられた橋といっても過言ではないほどです。これまでにここを渡った高僧たちは、この橋のもとで長い月日修行をした後に渡った、というのです。危険だから軽々しく渡らずそこで待っていよ、素敵なものが見れるから、といわれて待っていた寂昭さんの前に現れたのは獅子でした。 文殊菩薩、といえば獅子に騎乗しておられます。「獅子には文殊やめさるらん」と『玄象』でも謡われています。文殊さんと獅子とは仲良しなのです。そして、獅子といえば牡丹です。百獣の王・獅子と百花の王・牡丹との組み合わせは「唐獅子牡丹」などで有名ですね。獅子と牡丹を対にして見るようになったのは、それぞれが王者の風格十分で豪奢な取り合わせになるからというだけではなく、獅子が牡丹の花を食べるのが好きであるとか、また牡丹は薬草としても名高く、猛き獅子との組み合わせで守護の力が増すことを求められたからだとも言われています。どちらにせよ、切っても切れない仲となっているのですね。 「牡丹芳、牡丹芳、黄金の蘂現れて、花に戯れ枝に伏し轉び」 これは、まさにその獅子が牡丹の咲き匂う橋の上を渡っていく場面です。白居易の漢詩『牡丹芳』の冒頭部分から引用されています。牡丹が芳しく咲き匂っている、花の中心には黄金色の芯が顔を覗かせている、そのようななかに獅子も姿を現して牡丹の花に戯れたり牡丹の枝の上に転がったりしているのです。 獅子の大好きな文殊さんが住んでいる浄土には、獅子の大好きな牡丹の花も咲き乱れているのです。そのいっぱいの牡丹の花とむせ返るほどの香りの中を、文殊さんのもとへ帰るために獅子は滑りやすく細い、目もくらみそうな高さにかかる橋をものともせず渡って帰っていくのです。その姿を、寂昭法師は目の当たりにすることができたというお話です。 お能では、舞台の正面に大ぶりの牡丹の花をつけた台が据え置かれ、そこで獅子が勇壮な舞を見せます。獅子は一頭のこともありますし、二頭から四頭ぐらいで出て来てにぎやかに舞うこともあります。獅子の舞はもちろんのこと、深山幽谷の風景や獅子の躍動感をあらわす囃子が私は大好きです。話としては、この獅子の登場はまさしく菩薩の化現とも言うべきもので、そのようにして獅子が橋を渡っていく姿こそ、菩薩の力による奇瑞だとされています。 しかし私には、大好きな文殊さんに逢いたい一心でけなげに頑張る獅子に見えるのです。
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