<第三回・六月> 「水暗き。沢辺の蛍の影よりも。光君とぞ契らん」 『 六月になりました。もう夏はそこまでやって来ています。水辺が恋しくなってくる季節ですね。初夏の水辺の風物詩といえば蛍です。今年はもうご覧になりましたか? 今回は『葵上』からです。『葵上』は季節不定の曲なのですが蛍が効果的に出てきます。 平安時代きっての色男、光源氏にかつて愛された女性のお話です。紫式部の書いた『源氏物語』を題材にして作られています。主人公は、六条の御息所。タイトルになっている葵上は、舞台の正面に置かれる小袖という形で出てきます。 光源氏の正妻・葵上は物の怪にとり憑かれ病床にあります。周りのものは八方手を尽くしましたが治りません。その憑き物の正体を知ろうと、巫女・照日の前がよばれます。梓弓を使って憑き物を誘い出す照日。そこへ現れたのは、引く牛とておらず、ぼろぼろになった車に乗る高貴な姿の女性でした。彼女の名は、六条の御息所。 かつては光源氏に愛され、華やかに暮らしていた御息所。しかし、今はもう光源氏の愛は他の女のもの。その女こそ、この光源氏の正妻である葵上なのです。光源氏が出ている賀茂の祭を見ようと牛車に乗って出かけた時のこと。今を時めく葵上らの一行と場所争いをして負けてしまい、御息所は屈辱を受けます。心の奥底に秘めていた葵上への嫉妬と恨みが燃え上がり、ついに体を抜け出て葵上にとり憑いてしまったのです。梓弓にひかれて出てきた御息所は恨みを述べ、葵上を打ち据えます。 葵上の容態が急変したため、比叡山の横川の小聖がよばれます。御息所は鬼女の姿となって再び現れ、なおも葵上を苦しめようとしますが法力により祈り伏せられます。御息所には経を読む声がはじめは恐ろしく響きます。しかし、ついには経の功徳で妄執から解脱でき、消えていきます。 六条の御息所は、本当は人を恨んだり、嫉妬したりしたくはないのです。そういうことは愚かしいことだと知っています。短い人の生で何事かに執着するのははかないことだ、とも。けれど、頭では分かっていても心がいうことをきかないのです。高い身分ゆえに抑え続け隠し続け、自分でも気付かない振りをしていた気持ち。それが限界に達し、堰を切って溢れ出してしまったのです。そうなるともう制御することはできません。葵上への恨みはいつしか御息所の体を抜け出して報復に向かってしまうのです。 御息所は、情けが自分の身に返ってくるように人に与えた苦しみも返ってくる、といいます。葵上が苦しむのは自分を苦しめた当然の報い。こうして、私に苦しめ続けられるがいい。でも。 「水暗き。沢辺の蛍の影よりも。光君とぞ契らん」 葦が生い茂って暗くなっている水辺に光る蛍。そんな蛍よりももっと光っているあのお方、光源氏。あなたは生きてさえいれば、そんな光る君とずっと一緒にいられるわけでしょう……と、六条の御息所は力なく呟くのです。 舞台はもちろん観客に見えるように明るい中で進んでいくのですが、ここの謡を聞いて、シテの周囲が真っ暗に見えました。六条の御息所を包んでいるどうしようもないほどの暗く深い闇に気付かされたのです。木陰、草陰を縫ってついー、ついーと漂う小さな小さな光。かすかな光を意識することで、闇はさらに深まります。こんなことはしたくないけれどそうしてしまっている自分、葵上を見たら打ち据えずにはいられない自分を一番恥ずかしく恐ろしく思い、嫌悪しているのは御息所自身なのです。人を怨まずに生きていけたらどんなにか幸せでしょう。 六条の御息所は源氏をなおも愛しつづけています。梓弓にひかれて出る場面で 「月をば眺め明かすとも。月をば眺め明かすとも。月には見えじ陽炎の。」 と御息所は謡います。月をずっと眺めていることはあっても、こんな、恨みと嫉妬の炎に身を焦がしている様は月からは見られたくない、と。皓々と美しく光る月は、闇を彷徨う御息所にとっての光源氏なのでしょうか。
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