■第一回 淡海能■
平成八年十月五日(土)午後一時始
連吟 鶴亀 顧問出演仕舞 高砂 素謡 橋弁慶 招待校出演 京都橘女子大学能楽部 仕舞 鶴亀 吉野天人 羽衣クセ 胡蝶 玄象 素謡 吉野天人 招待校出演 佛教大学能楽部 仕舞 嵐山 経正キリ 花月クセ 猩々 素謡 土蜘蛛 番外仕舞 竹生島 附祝言 終了予定 十六時半頃
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学長挨拶 第一回 淡海能に寄せて 能はなぜ退屈か? 滋賀県立大学学長 日高敏隆 ぼくにとって、能はちっともわからなくて退屈なものであった。 能はなぜ退屈なのか、ぼくはいろいろ考えてみた。二十年ほど前にぼくが達した結論は、能はいわば動物の行動と同じところがあり、ちょっと見ただけでは何がなんだかわからないが、一つ一つの動作の意味を知れば、流れが分かるはずである、ということであった。 能を動物の行動と比較されて、能の関係者はいささかごきげんが悪かったが、「でも、そうかもしれません。能の動きはシンボリック(象徴的)ですからね」といってくれた。 ところがその後、京大の研修生(研究生)であった桃木暁子さんと一緒にさらに調べていくと、この結論は全くまちがっていることがわかってきた。 まず、能の舞いはぜんぜんシンボリックではないのである。歩く、立上る、見まわす、指さす、水に跳びこむなどという動作を全てリアルにやっている。ただ、その動きがごく小さいので、ちょっと見ただけでは何の動作かわからないのである。 ところが、それを謡がすべて説明しているのだ。たとえばぼくらが主に研究した『海女』という曲では、海女の亡霊が海に跳びこむ場面がある。シテは小さく二、三歩前にでて、ひざをほんの少しかがめる。これだけでは全く何をしているのかわからない。けれどそのとき謡は「海に跳びいりたり」とうたっているのだ。 残念ながら今の能では、どういうわけか謡はおそろしく変にゆがめた発声でうたわれるので、謡をやったことない一般の人には謡の言葉が聞きとれない。だから何がなんだかわからなくなってしまう。「あらすじ」を渡され読んでいても、そのどのへんをやっているのかすらわからない。 このようなことは中森昌三さんの著書の中にも書いてあることに、ぼくらはやがて気がついた。けれどじつは、もっと昔、能の開祖ともされる世阿弥が、すでにあの有名な『風姿花伝』の中で、「能は謡、舞いはもの真似」という意味のことを述べているのである。能について今一般的にいわれているのは、「能は舞い、能はシンボリック」ということである。どうしてそんなことになってしまったのか、ぼくは不思議でならない。 |
顧問挨拶> 滋賀県立大学能楽部顧問 脇田 晴子 このたび、わが滋賀県立大学、能楽部が、彦根城の能楽堂を借り切って、発表をするという壮挙に出ました。去年の発足から一年有余の研鑽ですが、観世流、深野新次郎先生の御指導の賜物です。佛教大学、京都橘女子大学の能楽部も賛助出演して下さいます。かくいう私も顧問として、出演いたします。声援の意味を込めて、ぜひご覧になって下さい。 |
連吟・鶴亀
言うまでもなく「鶴は千年、亀は万年」と有名ですよね、この二つの生き物のおめでたさは。
このお話は中国が舞台です。玄宗皇帝。知ってるかな? 日本ではなんと立派な平城京ができた頃の、唐の皇帝です。あの有名な楊貴妃さんにうつつを抜かしてしまった人なのですが、これはそれ以前のお話かと思われます。
頃は新春、一月。新しい年が来て何ともおめでたいので、皇帝が月宮殿に遊びに行くときにみんなも一緒に行きます。お祝い事をするのです。
まず、お祝い事は、お日様とお月様を拝むことから始まります。そして、毎年恒例の鶴さんと亀さんの祝いの舞。ここからタイトルはきているのですな。鶴さんと亀さんのおめでたさは、長生きすることにあるのですから、この舞も、皇帝の長寿をたたえ、またさらなる長寿を願っているのでしょう。
これを見て玄宗皇帝はごきげんになります。そして、自分も舞いだします。なかなかお茶目さんですな。そして、舞い終えると、自分のお家に帰っていくのでした。
<一期生 R.M>
顧問出演仕舞・高砂 「たかさごや〜」と結婚式などでお祝いに謡われる謡曲高砂。なにゆえに結婚式で謡われるのかといいますと、これは仲睦まじい老夫婦が出てくるお話だからなのですね。ともしらがだなも。 高砂の松と住江の松は、夫婦だと言われているそうです。それが、高砂の松は播磨の国に、住江の松は摂津の国にあるんですよね。それを不思議に思った旅人が、高砂で出会った老夫婦に「離ればなれなのに何で相生の松なのさ」と尋ねるのです。 能の世界ではよくある通り、その老夫婦こそ高砂・住江の松の精なのですが、「夫婦の愛はたとえどんなに遠く離れていたとしても変わらないものなのじゃよ」とのろけてくれちゃうのです。 その後、「住江で待ってるからね」といって老夫婦は旅人をほっといて消えるのですが、旅人は言われたとおり住江に向かいます。 そこに現れたのが住吉明神。ま、これも高砂の松の精の仮の姿ですが、この神様が実に颯爽とお舞いになられるのです。 いやぁ、めでたいお話でしょう? きっとみなさん「高砂」という曲目はよく御存知のことと思います。ですが、お話の中身まで知っている方はそうはおられますまい。今日は一つ賢くなられましたね。 何? 話と言うほどの中身もないじゃんか、ですって? ふふん、それがお能なのです。おめでたくて平和で民の幸せを願う素敵な謡と舞があればそれでいいではないですか。これが、お能の一つの型なのですもの。
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素謡・橋弁慶 ご存じ牛若丸こと源義経と武蔵坊弁慶の出会いのお話です。 弁慶さんは、何か大事なことをお願いしておったのでしょう、毎晩丑の刻(午前二時頃)に、京都の五条にある天神さんへお参りしておりました。ところがある日、いつものように行こうとしていると、五条の橋に怪しいちびっ子が出没しているから行くのはお止しなさいよ、と言われます。そのちびっ子ときたら、ものすごく強いのだそうです。 一度は弁慶さんも言われたとおり止めようとしますが、思い返します。ここでひるんだとあっちゃあ男がすたる。世に名を広く知られた剛の者、武蔵坊弁慶ですものね。 で、ところ変わりまして、五条の橋。噂のちびっ子がてぐすね引いて待ってます。 そこへ現れた弁慶さん。えらく強い奴らしいが、出て来おったら目に物見せてくれるわい、とたいした意気込みです。ところが、橋の上には女の人が立っているだけ。何じゃい、と通り過ぎようとしたら、その女の人が弁慶さんの長刀の端をぱっと蹴り上げて挑発します。怒る弁慶! 俺さまの大事な長刀を足蹴にするとは! 弁慶さん、そやつを懲らしめてくれようと挑みかかります。ところが、あれまそやつの身の軽いこと。さすがの弁慶さんもかわされてばかりでは如何ともしがたく、ここまで強いからには、と正体を訊きます。すると、なんと源義経であったと言うわけですな。 源氏は平家に滅ぼされましたが、源家の頭領・義朝の子が何人か生き残っています。有名なのが兄・頼朝と、弟・義経。この二人の源家復興の顛末はみなさんご存じですね。ともかく、弁慶さんはさすが源氏の血よ、と義経を見込んで、家来にしてもらうのでした。めでたしめでたし。 さて、ちまたに伝わる話では、五条の橋の上で日夜狼藉を働いておったのは弁慶さんの方なのですが、こちらでは牛若丸の方が悪さをしておったことになっていますね。舞台の脚本な訳ですから、演出上の深い理由がおありなのでしょう。ですが、源家復興の野望を抱く牛若丸が、強くて頼りになる家臣を見つけるため、深夜に一人歩きをするような豪胆な者の腕試しをしていた、と考えると納得いきませんか?そうして、弁慶はお眼鏡にかなったというわけ。ううむ、歴史のロマンですねぇ。
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仕舞・鶴亀 Hey everyone! 私はカナダから日本の文化や文学を勉強するために滋賀県大へ来ました。お能は日本の文化の代表的な一部分であるので、ぜひ県大の能楽部に入りたかったのです。というよりも、一回部活動に行ったらお菓子がいっぱい出て、又日本のお菓子を試す為に何回も行かなくてはなりませんでした。お能を知るより、日本のお菓子を知ることが出来、その証拠に今日私はお菓子係となりました。 今日私は鶴亀というめでたいお仕舞を舞います。謡を覚えるのがとても難しかったです。電車の中で walkman を聞きながら覚えようとしたが、まわりの人はあまりに怪しがって、隣の席がいつも空いたままでした。何回も何回も聞いてもそれでも謡の言葉が変に口から出たり、「袂」の代わりに「トマト」を言ったりして、困りました。今日はちゃんと謡うように頑張りたいと思います。
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仕舞・吉野天人 桜を見るために吉野に足を運んだ都人の前に不思議な女性があらわれます。不審に思って尋ねると、実は自分は天女であることを明かし、夜になれば舞をお見せしましょうと言って立ち去ってゆきます。やがて夜になると空の上から美しい管弦の音が聞こえ、天女が再び現れ、都人の前に舞を披露するのです。これが「吉野天人」のお話ですが、私の舞う「お仕舞」では、天女が再び現れるまでのところが省かれていて、舞のみという形になっています。このお仕舞が私にとって初めてのお能というものだったのですが、稽古してみて「なんて難しいのだろう」と弱気になってしまいました。ここでは左足から進むのだとか、あそこでは扇子を返すのだとか、頭では覚えたつもりでも、謡いに合わせて自然に動くことがなかなか出来ませんでした。けれども稽古することは、徐々に楽しくなってきました。私は本番でちゃんと天女になれるでしょうか。なりたいものです。
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仕舞・羽衣クセ 「羽衣」とは、俗に有名な「羽衣伝説」を能にしたものだ。とはいえ、地域によってその話の内容は全く違う。 たとえば滋賀県の北に位置する余呉湖に伝わるものは、水浴している天女の羽衣を人間の男が隠してしまい、天女はやむなく結婚して子を生んだ後、羽衣を探しだして天に帰るという話になっている。 一方、この謡曲『羽衣』の元になった三保の松原の伝説は、妻にもならず子供も生まず、美しい天女は美しいままで天に帰っていく、というものである。いやー、ええこっちゃ。 さて、私が今回舞わさせてもらうのは、この天の羽衣をまとった天女さんの役である。あー、えらいこっちゃ。日頃の私をご存じの方は、笑っておられることでしょう。お稽古の時、何度先生に「仮にも乙女なんだから・・・」と言われたことか・・・。まあいいのだ、自分が楽しければ。 はてさて、舞台にどんな天女さんが現れるんでしょうねえ・・・。笑いたければ笑え〜い。
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仕舞・胡蝶 蝶の精が一人僧の前で舞っています。四季折々の花々に飛び交う上品で軽やかな胡蝶の姿とはうらはらに春・夏・秋の花が尽き、菩薩の姿で戯れようとする命はかない胡蝶の姿が見え隠れしているのです。 私は蝶です。ただ人前はどうも苦手な蝶でして・・・。そこのところお忘れなく。さて、蝶は蝶なりに美しく飛ぶ方法を毎日のように考えなければならないことを御存知でしょうか。それが私にとって大へん苦痛であります。どの蝶と比べてみてもかなわないのです。私なりの努力はしているのですけれど・・・。 とにかく、まぁ見てやってください。ヒラ、ヒラ、ヒラ・・・・・
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仕舞・玄象 唐へ渡るため、京から須磨に来た琵琶の名手・師長は、そこである老夫婦に出会います。老夫婦の琵琶と琴の音のあまりの見事さに自分の未熟を悟り、渡唐をやめて帰ろうとするのですが実はこの夫婦、村上天皇と梨壺女御。天皇は師長に弾かせるため、龍宮にある琵琶の名器獅子丸を龍神に命じて取り寄せる、というのが主なお話なのです。が、私の舞うのはこの村上天皇です。八大龍王を眷属のように従える大人物。・・・にもかかわらず、私が能を始めたばかりのひよっこというのは、なんかおこがましいですが、ここはひとつ、堂々と龍を従えた気分になってやってみましょう。
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素謡・吉野天人 吉野と言えば、言わでも知るき桜の名所。春には是非行きたいものですね。 そんなわけで、都(京都)から吉野(奈良)へお花見に出かけた人々がありました。昔も今も、日本人のお花見好きは変わらないようです。もっとも、昔の人は飲み食い主体ではなかったでしょうが。時代の経つにつれ、日本人は風流ということを何処かに置いてきてしまったのでしょう。 このお話の都の人々は、より美しい桜を求めるうち、ずいぶん山の奥まで入ってきてしまいました。すると、山奥であるにも関わらず、鄙には希なる美女が桜をうっとり眺めているではありませんか。こんな山奥で美女に出会うと、誰でもうれしくなるってもんですよね。「カノジョー、どこから来たのー?」 その美女は、この土地の者だとのことでした。桜が大好きなのだそうです。いやはや、ここで出会えたのも何かのご縁ですな、というわけで、みんなで一緒にお花見をします。 随分時が経ちましたが、美女は帰ろうとしません。都の人たちは、いくら桜が美しいとはいっても、と少し不審がります。すると、そこでその美女は、自分は実は天人なのよ、と教えます。桜があまりに美しいので、つい降りて来てしまったのだと。 ま、いきなり「私は天人なのさ」と言われて、「はい、そうですか」というわけにいかないのは昔も今も変わらないようです。都の人たちは、疑いの眼差しを美女に向けたのに違いありません。なぜなら、その美女は、こう言うからです。 「私のことを信じて、今夜はここに泊まるというなら、古くから伝わる舞を見せてあげますよ」 そして美女は姿を消しました。天人の舞なら、ぜひ見てみたいものですよね。それに、地元の人が帰らないのを怪しむほどの時間ですから、都の人も帰れるわけがありません。もとより泊まるのを覚悟の上だったのでしょう、みんなはそこで待っていました。 すると、空から音楽が聞こえてくるではありませんか。あたりにはえも言われぬ良い香りが漂い、天から花が降ってきます。この、空に音楽が鳴り、花が降るというのは、仏様の出現の時の合図のような物なのです。いつでもそうです。そして、先ほどの美女、いや、もう天人と呼びましょう、天人が現れ、舞い始めました。その美しいことといったら。筆舌に尽くしがたいとはこのことですね。 素敵な舞を終えた天人は雲の彼方に去っていきましたとさ。どんとはらい。
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仕舞・嵐山 ところは山城の国、花盛りの嵐山。 舞うはカミサマでございます。 (神とカミの区別はつけるように。) 魔障降伏の憤怒の形相ながら、 衆生の苦患を和らげ、 煩悩を除こうとの誓いも頼もしく、 桜の花に戯れ、梢に翔って (跳んだりはねたり)、 はつらつと神遊びをなさいます。 そして、栄えゆく春を祝賀されるのです。 (深まりゆく秋、 いかがお過ごしでしょうか)。 日本のカミサマって、たくさんいらっしゃって個性豊かですね。 (八百万のカミガミ)。 人間どもが勝手なお願いばかりするから、カミサマも、きっと苦労が耐えないことでしょう。 でもそれなりに人生(カミサマだから (わーい、お花見だ!)
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仕舞・経正キリ 兄から弟への手紙。 「敦盛、元気にしているだろうか。笛の稽古を今でもしているか。お前の お前は小さいときから音曲を好んでいたな。私にまとわりついては、琵琶を聴かせろとねだった。ぐずっていたときも、私の琵琶の音を聴けばすぐに機嫌を直した。それで私も人に琵琶の名手と呼ばれるまでに上達したのかもしれない。考えてみれば、お前のおかけだな。 お前は今も小枝を吹いているか。いつまでも、笛を手放さないでほしい。お前のそばにはいつも美しい音楽があると思うだけで、少しは苦しみも癒えるような気がする。 私のいる修羅道は、苦しいところだ。争いをやめることが出来ない。まさしく、修羅の苦しみの内にある。 お前を殺したのが熊谷殿で、本当に良かった。あの人はお前の菩提を弔って、この修羅の世界から救い出してくれたものな。お前にはここはふさわしくないから。 この前、琵琶の音がしたので思わず人前に姿を現してしまったことがあった。その琵琶は、
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仕舞・花月クセ この「花月」は、幼い息子が行方不明になったことを縁に出家した男が、全国を行脚するうち、ある年の春の頃、清水寺で成長した息子と再会するという話です。この息子が花月と名乗っていて、最初に登場する場面で自分の名前の由来を語るのですが、この“花月”の“月”はいうまでもなくお月さんの“月”なのですが、“くゎ”の字は春は“花”、夏は“瓜”、秋は“菓”、冬は“火”と季節によって使い分けているのです。このお能の題は「花月」で、春の頃のお話ですが、今は秋なので「菓月」になるのでしょうか。なんだかおいしそうな名前ですねぇ。 かっこよく名乗って登場した花月は友達の清水寺の近くの男と恋の小唄を謡ったり、鶯を小弓で射落とそうとしたり、この寺はこんなことがきっかけでできたんですよ、という縁起の曲舞をまったり、自分の持ち芸を披露します。今回の仕舞の内容は、花月の舞う清水寺縁起の曲舞です。今回のお仕舞には初めての六拍子(足踏み六回)があります。後半の「なおもその奇特を・・・」というところです。念願かなって六拍子ができるので、かなり気合が入っています。花月は、お寺で食事の世話などをする喝食と呼ばれる少年でなかなかの美少年であるらしいので、そういうつもりで見てくださいね。
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仕舞・猩々 金山の麓、揚子江のほとりに住む高風は親孝行の徳があり、市に出て酒を売れば富貴の身になるとの不思議な夢を見る。教えの通りにするとしだいに富貴の身となった。もう一つ不思議なことは、市ごとに来て酒を飲む者がいるがいくら盃を重ねても顔色が変わらない。不審に思い名を尋ねると、海中に住む猩々(酒を好み舞い戯れる少年の姿をした妖精)という。高風は、今日は潯陽の江に行き猩々を待とうと、月の美しい夜、菊花の酒を壺の中にたたえて待つ。やがて御酒を慕い、友に逢うことを楽しんで猩々が海中より浮かび出て酒を汲みかわす。月も星もくまなく輝き、葦の葉は笛の音のよう、波は鼓の調べのよう。猩々は舞を舞い、汲めども尽きぬ酒壺を与えて消える。 この演目を舞わせて頂く私は、お酒が好きだ。飲んでも顔色が変わらないし、つくづくふさわしい演目に巡りあえて良かったなぁ。さ、がんばろう。
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素謡・土蜘蛛 源頼光って御存知かしら。酒呑童子や大むかで退治で有名で、かの金太郎こと坂田公時さんを四天王の一人として擁するすごい人です。こんなに強い人でも、人間ですもの、病気になることもあります。いわゆる鬼の霍乱というやつですか。心配した胡蝶ちゃんがお薬を持ってきてくれたところから、このお話は始まります。 頼光さんの具合はかなり悪いようです。胡蝶ちゃんに弱音を吐いております。その夜、一人で床にふせっていると、寝室に怪しい坊主が現れました。「具合はどうかね、頼光?」見知らぬ坊主にそんなことを言われ、頼光は戸惑います。坊主は、短歌の上の句を言います。「我が背子が来べき宵なりささがにの」その下の句はこうです。「蜘蛛のふるまいかねて著しも」古今集の衣通姫の歌なのですが、頼光はそれを知っていました。つまり、坊主は“蜘蛛”ということをにおわせたかった訳なのです。なんだか、見た目も蜘蛛のようになってきました。そして、糸を投げつけてきます。危うし頼光! しかし、そこは腐っても源頼光。刀をとって斬りつけます。すると、蜘蛛男は消えていきました。 そこへ、異変を察して素早くまかりこしたのが独武者。頼光は今あったことを話します。独武者は頼光の与えた傷から流れた血の跡を追っていきます。すると、出ました土蜘蛛! 見るからにおっかない、いやらしい奴です。独武者とそのお友達たちは、土蜘蛛をやっつけまして、めでたしめでたし。これで頼光の病も癒えることでしょう。 これは、本式のお能で見せてあげられないのが残念ですな。土蜘蛛がぱーっと白い蜘蛛の糸を出して、かっこよいのですよ、悪い奴だけど。 しかし、土蜘蛛とは何者なのでしょう。頼光に呪いをかけて病気にさせるところを見ると、とても強い力を持っているようですが、病気と侮ったか、のこのこ出かけていって病人頼光に切りつけられ、家来どもにやられてしまうとは。それに、頼光をねらった理由も今一つはっきりしませんし。ただ「俺さまは悪者だから頼光をやっつけるのだ」では、納得できません。せめて、「貴様が昔に踏み殺した蜘蛛は俺の一人息子だったのだ」というような心うつ秘話(いや、この程度じゃだめだな)でもあれば良かったのかもしれません。しかし、なんだかそこが憎めなくて、かわいい奴だなぁ、と思えてしまう土蜘蛛なのでした。
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番外仕舞・竹生島 この曲は淡海能に実にふさわしいですね。何せ、琵琶湖=淡海にぽっかり浮かぶあの竹生島が舞台なのですから。 今もあの竹生島は西国三十三カ所の一つに数えられたり、三大弁才天(後の二つは・・・ウフフ)の霊場として有名ですが、ずっと昔からそうだったのですね。 このお話でも、弁才天さんの評判を耳にしている都の人たちがお参りをしようと琵琶湖の西にやってくるところから始まります。 すると、そこへ一艘の船が。漁師のおじいちゃんと海女のお姉ちゃんが乗っています。地元の人達です。毎日琵琶湖でお魚や貝を採って暮らしているのでしょう。素敵な景色をお友達にしてね。 そのお船に乗せてもらった都人。竹生島に無事到着するのですが、お姉ちゃんも島に入ろうとするのを見咎めます。「女の人は行けないんじゃないの?」 女人禁制だろ、とこう言うのですね。しかし、余所者が知ったかぶりをするものではありません。 「ここの仏様は女人成仏を誓われた阿弥陀如来の再来だし、それに何よりあんたたちがお参りしに来た弁天さんからして女の人じゃないか。女の人こそお参りすべきなのだぞ」 実は、このおじいちゃんは龍神さま、そして海女のお姉ちゃんこそ弁才天、サラスヴァティーさんだったのです。二人はそれを告げると水中に消えました。 その後、いつものことですが神さまの姿で現れて素敵な舞を見せてくれました。いやはや。果報者め。
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附祝言・岩船 岩舟、と聞いただけではあんまりおめでたそうな気はしないのですが、このお船は、「宝船」なんですね。金銀財宝をわんさか載せているのです。 「中国の素敵な宝物を買っていらっしゃい」と当時の天皇に言われた下臣が摂津の住吉に来たのですが、そこの宝の市で不思議な人に出会います。 その人は、格好は中国人のようなのですが、言葉は大和ことば、つまり日本語を話す子どもさんなのです。銀のお皿の上に宝珠を乗せてもっています。宝珠、というのはあれですな。吉祥天さんがよくもってる桃のようなやつ。食べ物ではないのですが。 この子どもさんが、実は天からのお使いなのですね。日本の政治が民に優しく平和でよろしい、というので、ご褒美を下さるとのこと。そのご褒美が天の岩舟に積み込まれ、それを漕いできたのがこの子どもさん、天の この宝の積まれた岩舟は、日本の龍神さんが仲間の八大龍王さんたちと力を合わせて住吉の岸に漕ぎ寄せます。そして、数え切れないほどの金銀財宝を運び出して、日本がいつまでも栄えるといいな、とみんな思うのでした。 めでたくて素敵なこと尽くしのお話ではないですか。祝言にはとってもぴったりですね。
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部長・A.Yに聞く淡海能誕生のいきさつ ―――いやぁ、やってくれましたね。滋賀県は、こういう「淡海文化」の担い手の登場を待っておったのですよ。しかしまぁ淡海能とはえらく大きく出たものですね。誰が考えたのですか? A.Y : それは私です。えっへん。 ―――他にも、この会の名称の候補はあがっていたのですか? A.Y : 安直に彦根能とか、びわこ能とか。きれいどころとしては湖月能とか。滋賀県立大学の名から県大能とか・・・まぁ、いろいろあったね。 ―――県大能じゃ、よその県にもあるかもしれないですわね、そりゃ。しかし、淡海、といったらつまり近江、滋賀県のことですね。この淡海能という名にはとてつもない野望が秘められているのではありませんか? 副部長はいつもあちこちで大言壮語をはいておるようですが、そこのところ、部長さんの口から決意のほど、といったものをお聞かせ願えませんかね。 A.Y : 滋賀県の名物になるのがねらいだね。 ―――ほう! すると、これからもこの滋賀県立大学能楽部の動向から目を離すわけには行きませんね。こりゃ楽しみだとても楽しみだ。応援していますよ。 A.Y : はい、ありがとう。また来てな。 ―――部長のA.Yさん、お忙しい中ご協力ありがとうございました。 この滋賀県立大学の学生となったからには、何かしらの面で県の一分野を背負って立つという意気込み、気合は買います。若さの特権ですな。しかし、失敗すれば「近頃の若いもんは」と決まり文句を言われかねない。そこを、あえて大きく出る。なかなか責任感のある人のようです。部長として部員をひっぱっていく姿が目に浮かびますな。この調子で本当に、滋賀の文化を代表する存在になれることを期待します。
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お能でウフフ 特別編 〜淡海能を祝して〜 ほほほ。ここにも現れました。この度は、淡海能が無事開催の運びとなりまして、何よりです。さて、唐突ですが本題に入りましょうかね。 土蜘蛛の謡の中に、こんな短歌が出てきましたね? 我が背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛の振る舞いかねて 素謡解説のところでも少しふれてありましたが、あれは、古今和歌集に載っている それはともかく。 土蜘蛛が現れてこの歌を言うのですが、この歌は土蜘蛛のふるまいを詠んだ歌ではありませんし、もちろん頼光にとって土蜘蛛が「背子」ということもないと思います。では、なぜこの歌だったのでしょう。 理由その一。土蜘蛛は自分だけでなく、頼光も知ってる歌でないと、と思っていたのに違いありません。上の句を言えば下の句がスラリと出るほどの、ね。古今和歌集は有名な本ですからね。当時の教養人必読の書であったのでしょう。 理由その二。土蜘蛛は、「蜘蛛」という言葉は頼光に言わせたかったのでしょう。その方が劇的ですものね。和歌は、上の句と下の句で分けるのが普通です。百人一首のカルタ遊びのように。すると、「蜘蛛」という言葉は下の句になければなりません。そうしますと、三句目に蜘蛛の枕詞である「ささがに」という言葉があって、それを受けて四句目に「蜘蛛」という言葉が入っているこの歌はうってつけです。 ふむ。「今夜は私の愛しい方が来てくれるはずだわ、だって蜘蛛がこんな風にしてるんだもの。」というようなラブラブの歌を、ねぇ。ふむ。 いきなり「蜘蛛の振る舞いかねて著しも」と言われたって、なんでー? と思いなさるでしょう。これは、ふふふ、もう一つ蜘蛛の歌があって、それをふまえて詠んでるのですな。知りたい人は古今和歌集を読もう。そうすれば、君のところに土蜘蛛が来ても大丈夫。 そうそう、土蜘蛛というのは、朝廷に最後まで抵抗した土着の人々のことなのだそうです。それなら、頼光をやっつけたかったのも解りますね。 最後に一つ。 ささがに、とは細い蟹、と書きます。なるほど。
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しじみ隊長・M.Nに聞くしじみの謎 滋賀県立大学能楽部を語る際に忘れてはならないのが≪しじみ≫。何かの団体らしく、しかも能楽部と深い関わりがあるらしいのですが、その正体は不明です。チケットの協賛のところに≪しじみ・なまず≫とありましたね? なんだかとても気になるではありませんか。そういう時は、誰かに聞くに限りますので、とりあえずしじみ隊長を名乗る人物とコンタクトをとりました。以下は、その際に行ったインタビューの模様です。 ―――こんにちは。では、唐突におたずねしますが、「しじみ」っていったい何なんです? 隊長 : しじみというのは能楽部親衛隊女の子版なのです。つまり男の子版もあるということです。なまずです。仲良く能楽部をサポートしますのでよろしくお願いします。 ―――ほう。創設二年目にしてもう親衛隊があるのですか。よほど魅力があると見えますね、能楽部は。 隊長 : はい。お能だけではなく、部員の皆さんが素敵な方ばかりなのです。それは今日の舞台を見ていただければわかると思うのです。 ―――「しじみ」とは変わってますが、誰がこのような名を付けたんですか? 隊長 : 能楽部の副部長さんです。「しじみ」は瀬田しじみからなのです。私は瀬田の住民です。ちなみに、「なまず」はビワコオオナマズです。副部長さんはビワコオオナマズが大好きなようなのです。ふたつとも滋賀県らしくていい名前だと思います。私は気に入っています。 ―――「しじみ」に入る際、能そのものが好きな場合と、部員が好きな場合とが考えられると思うのですが、隊員の志望理由はどちらが多いですか? 隊長 : 半々くらいかな。 ―――あなたはどちらです? 隊長 : もちろん部員です。 ―――ずばり、それは誰ですか。 隊長 : それは秘密。韓国語でピミル。隊長は皆さんに同じように愛を注ぐのです。 ―――部員に、おそらく副部長あたりにむりやり親衛隊員にされた人もいると聞きますが? 隊長 : そんなことはありません。・・・と思います。 ―――親衛隊「しじみ」を発足させるにいたったいきさつをお聞かせ下さい。 隊長 : お能部はまだ一、二回生しかいないから部員が少ないのです。お能部の大舞台を開くにあたり、とても大変そうなので日頃お能部を影で見守っていた私たちが、思い切って表に出ることにしたのです。 ―――なまず隊長にもお話をお聞きしたいのですが、ご紹介願えませんか。 隊長 : なまず隊長まで人目にさらすわけにはいきません。 ―――それは申し訳ない事をしましたね。 ご協力ありがとうございました。これからも頑張って下さい。 隊長 : はい。 ―――なにやら不思議な雰囲気の人でした。能楽部側に聞いた話によると、数少ない部員は全員舞台に出るので、本番中は裏のことにまで手が回りません。そこで協力してくれるのが「しじみ」だということだそうです。つまり、淡海能の際、着物を着ていないのに関係者らしく立ち働いているかわいい女の子がいたらそれは「しじみ」なのです。(かっこいい男の子がいたら「なまず」。)こうして多くの人々に支えられて能楽部は存在しているのですね。いやはや、なんともありがたいことではありませんか。能楽部は幸せ者ですね。
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