能楽「船弁慶」


装束


文掲載(現代語訳付き)

左側が原文、右側が現代語訳です。
下に注釈がついています。

辨慶
従者

地謡
「今日思い立つ旅衣。今日思い立つ旅衣気帰洛を何時と定めん

「今日思い立つ旅衣気帰洛を何時と定めん
弁慶
従者
「今日、思い立って旅に出る。旅装を整え、京から旅立つのであるが、都へ帰る日はいったいいつになることだろう。
辨慶 「かやうに候者ハ。西塔乃傍に住居する武蔵坊辨慶にて候。さても我が君判官殿ハ。 頼朝乃御代官として平家を亡ぼし給ひ。御兄弟乃御仲日月の如く御座候べきを。言いかひなき者乃讒言により。御仲違はれ候事。返す返すも口惜しき次第にて候。然れども我が君親兄乃禮を重んじ給ひ。一まづ都を御開きあって。西國の方へ御下向あり。御身に過りなき通りを御欺きあるべき為に。今日夜をこめ淀より御舟に召され。津の國尼が崎大物乃浦へと急ぎ候 弁慶 「私は、西塔*1の側に住む、武蔵坊弁慶であります。さて、我が主君判官*2義経殿は、頼朝代理の官として平家を滅ぼされ、ご兄弟の仲は並び立つ月と日のようにむつまじくあるべきですのに、つまらぬ者*3の讒言によって仲違いなさったことは返す返すも残念なことであります。 しかしながら、我が気味は兄に対する礼儀を重んじられ、ひとまず都を退却し、西国へと下られます。ご自身に過失のないことを嘆願なさるため、今日夜も深いうちに淀から舟に乗り、津の国尼崎の大物の浦*4へと急いでおります。
辨慶
従者
「頃ハ文治の初めつ方。頼朝義経不會乃由。既に落居し力なく 弁慶
従者
「時は文治初年*5、頼朝義経兄弟の不和が決定的になってしまったので、しかたなく
義經 「判官都を遠近の。道狭くならぬそ乃前に。西國の方へと志し 義経 「私は都を落ちていく中、あちらこちらの道が追っ手に狭められ、危険が迫ってくるその前に西国へ落ち延びようと心に決めて、
辨慶
従者
「まだ夜深くも雲居の月。出づるも惜しき都乃名残。一年平家追討乃。都出にハ引きかへて。たゞ十余人。すごすごと。さも疎からぬ友舟乃
「上り下るや雲水乃身ハ定めなき習ひかな
「世の中乃。人ハ何とも石清水。人ハ何とも石清水。澄濁るをば。神ぞ知るらんと。高き御影を伏し拝み。行けば程なく旅心。潮も波も共に引く大物乃浦に。着きにけり大物乃浦に着きにけり
弁慶
従者
「まだ夜も深い中、月が雲の中から出るのを惜しむように、我々も離れがたい都の名残を惜しんでいる。先年の平家追討のため都を出発したときの華やかさとはうって変わって、ただ十数人すごすごと、親しいもの同士連れ立って舟を進ませていく。
「上る雲や下ってゆく水の流れのように、定められないのが人の身の常だ。
「世の人は何とでも言わば言え、人に何と言われようとかまわない。我々の心が澄んでいるのか濁っているのかは、石清水*6の神こそご存知だろう。高い山上にある岩清水八幡宮を舟上から伏し拝む。そうして舟を進めていくと、まもなく旅の憂いも潮や波と共に引いていき、大物の浦へと到着した。
辨慶 「御急ぎ候程に。これハはや大物乃浦に御着きにて候。某存知の者乃候間。御宿の事を申しつけうずるにて候。 弁慶 「急ぎましたので、早くも大物の浦に到着いたしました。私の知り合いの者がおりますゆえ、宿のことを申しつけようと思います。


*1‥西塔【さいとう】 比叡山延暦寺の三塔の一つ。他に東塔・横川がある。
*2‥判官【ほうがん】 検非違使の通称。義経がその職にあったので、もっぱら義経のことを指していう。
*3‥つまらぬ者  梶原景時のこと
*4‥大物の浦【だいもつのうら】 摂津の国河辺郡(兵庫県)。大物の浦は当時西国往来の舟の発着地だった。
*5‥文治初年【ぶんじしょねん】 義経都落ちは文治元年(一一八五)十一月三日。
*6‥石清水【いわしみず】 山城国の石清水八幡宮。武家の崇敬が深かった。


辨慶 「いかに申し上げ候。恐れ多き申し事にて候へども。正しく静ハ御供と見え申して候。今の折節何とやらん似合はぬ様に御座候へば。あっぱれこれより御返しあれかしと存じ候 弁慶 「申し上げます。恐れ多い言い分とは承知の上ですが、静*1はお供をしているとお見受けします。今の折には不似合いなように思いますので、できればここから都にお返しになるのがよいと存じます。
義經 「ともかくも辨慶計らひ候へ 義経 「いかようにも弁慶、そなたの良いように取りはからってくれ。
辨慶 「畏って候。さらば静乃御宿へ参りて申し候べし
「いかにこ乃家の内に静乃渡り候か。君よりの勅使に武蔵が参じて候
弁慶 「かしこまりました。それでは静の宿へ参り、話してみましょう。
「御免、こちらに静はおりますか。我が君の使いで武蔵が参りました。
「武蔵殿とハあら思ひ寄らずや。何乃為の御使いにて候ぞ 「武蔵殿がいらっしゃるとは思いませんでした。いったい何事でしょうか。
辨慶 「さん候只今参る事、餘の儀にあらず。我が君の御諚にハ。これまで乃御参り返す返すも神妙に思し召し候さりながら。只今ハ何とやらん似合わぬ様に御座候へば。これより都へ御歸りあれとの御事にて候 弁慶 このたび参ったのは他でもありません。我が君の仰せによると、これまで共に来てくれたことはまことに健気なことですが、今の状況では似つかわしくないので、ここから都にお帰りになるように、とのことです。
「これハ思ひも寄らぬ仰せかな。何処までも御供とこそ思ひしに。頼みても頼みなきハ人乃心なり。あら何ともなや候 これは思ってもみませんでした。どこまでもご一緒しようと思っておりましたのに。こちらが頼りにしても頼りにならないのが人の心なのですね。ああ、どうしようもないことです。*2
辨慶 「さて御返事をば何と申し候べき 弁慶 「さて、返事は何とお伝えしましょうか。
「みづから御供申し。君の御大事になり候はゞ留まり候べし 「私がお供をすることが義経様にとって致命的な事態になるようでしたら、留まることにいたします。
辨慶 「あら事々しや候。たゞ御留りあるが肝要にて候 弁慶 「これは大げさなことをおっしゃる。黙ってお留まりになるのが、一番良いのです。*3
「よくよく物を案ずるに。これハ武蔵殿の御計らひと思ひ候程に。わらは参り直に御返事を申し候べし 「よくよく思案してみますと、これは武蔵殿の取り計らいであるように思えます。私が義経様の元へ参り、直接お返事を申し上げます。
辨慶 「それハともかくもにて候。さらば御参り候へ

「いかに申し上げ候。静乃御参りにて候
弁慶 「それはどうなりと、お考え次第です。では、おいでなさい。


「申し上げます。静が参りました。
義經 「いかに静。こ乃度思はずも落人となり落ち下る処に。これまで遙々来りたる志。返す返すも神妙なりさりながら。遙々乃波濤を凌ぎ下らん事然るべからず。まづこ乃度ハ都に上り時節を待ち候へ 義経 「静よ。このたびは思いがけず落人*4となってしまい、都から落ち延びてきた。ここまで遙々共に来てくれたことは思い返しても殊勝なことだ。だが、遙か遠くの西国*5まで波を乗り切って下向するのは、女の身としてできることではない。まずここは都に上り、再会の時を待つがよい。
「さてハ實に我が君の御諚にて候ぞや。由なき武蔵殿を怨み申しつる事乃恥かしさよ。返す返すも面目なうこそ候へ 「では本当に義経様の仰せでしたか。何の関わりもない武蔵殿をお恨みしてしまい、お恥ずかしいことです。本当に面目ございません。
*1・・静御前(一一八五?〜?)。義経の愛妾。磯禅師の娘。
白拍子の舞手として有名。大物の浦で別れたというのは作者の創作で、
『義経記』では、吉野山で別れたとされている。
*2・・「あら何ともなや候」・・・失望・落胆・自嘲・困惑の気持ちを表す語。
*3・・「大事」などという大げさな言葉を用いたのを咎めた言い方。
*4・・人目を避けて逃げ延びる人。
*5・・九州。

■「よくよく物を案ずるに。これハ武蔵殿の御計らひと思ひ候程に。」は静の独り言。
なので弁慶の方を向かずに話します。


辨慶 「いやいやこれハ苦しからず候。たゞ人口を思し召すなり。御心変るとな思し召しそと。涙を流し申しけり 弁慶 「いやいや、そんなことはお気になさるな。それよりも、こたびのことはただ世間の噂に上るのをはばかってのこと。我が君の心変わりとはお思いなされませぬよう。と、涙ながらに言うのだった。
「いやとにかくに数ならぬ。身にハ怨みもなけれども。これハ船路の門出なるに 「いいえ。何にせよ、数に入らぬ身の上ですので、お恨みもいたしません。これよりは船路の門出。それなのに、
地謡 「波風も。静を留め給ふかと。静を留め給ふかと。涙を流し木綿四手の。神かけて変らじと。契りし事も定めなや。げにや別れより。勝りて惜しき命かな。君に二度逢はんとぞ思ふ行末 地謡 「波風が静かであれと願う門出なのに、その静を名に持つ私を留め置かれるのはどうしてなのかと、涙を流し訴えたけれど、神*1に誓ったいつまでも変わらぬ契りさえもはかないもの。でも別れの惜しさよりもいっそう惜しいのがわが命。生きてさえいれば、我が君に再会できると思うから。*2
義經 「いかに辨慶 義経 「弁慶よ。
辨慶 「御前に候 弁慶 「こちらにおります。
義經 「静に酒を勧め候へ 義経 「静に酒を勧めよ。
辨慶 「畏まって候。げにげにこれハ御門出乃。行末千代ぞと菊乃盃。静にこそハ勧めけれ 弁慶 「かしこまりました。
まことにこれは門出の、行く末が千代まで続くと聞く菊の杯*3である。と、静に勧めた。
「わらはハ君の御別れ。遣る方なさにかき昏れて。涙に咽ぶばかりなり 「私にとっては義経様との別れのとき。なぐさめようもない悲しさに、心も暗く、涙にむせぶばかりです。
辨慶 「いやいやこれハ苦しからぬ。旅乃船路の門出乃和歌。たゞ一さしと勧むれば 弁慶 「いやいや、お嘆きはごもっとも。しかし、平穏な旅の船出を祈っての歌舞*4を一曲舞うようにと勧める。
「その時静ハ立ち上り。時の調子を取りあへず。渡口乃郵船ハ。風静まって出づ 「そのとき私は立ち上がり、この場にふさわしい歌の調子を即座に定めて、
港に停泊していた定期船は、風が静まって出ていき、
地謡 「波頭の謫所ハ。日晴れて見ゆ 地謡 「波路遙かの配所は、日が晴れていて見える。*5
辨慶 「これに烏帽子乃候。召され候へ 弁慶 「ここに烏帽子*6があります。お召しなさい。
「立ち舞ふべくもあらぬ身乃 「別れの悲しみのあまり、舞うことなどできるはずもないこの身が、
地謡 「袖うち振るも。恥かしや 地謡 「袖を振って舞うというのも、恥ずかしいこと。


*1…「木綿四手」・・・神に供える幣。「涙を流し言う」と掛けてある。「神」の枕詞でもある。
*2…藤原公任の和歌。「別れよりまさりて惜しき命かな 君にふたたび逢はんと思へば」からの引用。意味は訳を参照。
*3…「聞く」と「菊」の掛詞。長寿を祝する盃。
*4…「和歌」は白拍子舞の序曲をなす今様。具体的には、次ページの「渡口の郵船は・・・」の一節。
*5…和漢朗詠集、小野篁「渡口郵船風定出 波頭謫所日晴見」に基づく。篁が隠岐へ流された後、免罪され、帰還を許されたときの詩。船出に当たり、平穏を寿ぎ、召還を予祝した。 配所は配流の場所で、ここでは隠岐のこと。都に帰る船上から、遠ざかっていく隠岐を眺めている情景を詠んだ。
*6…烏帽子・直垂は白拍子である静の舞装束

■舞台で付けるのは烏帽子のみですが、実際は直垂も着ています。
想像してみてくださいね


「傅へ聞く陶朱公ハ勾践を伴ひ 「話に聞くところによりますと、陶朱公は主君の越王・勾践をお連れし、
地謡 「會稽山に籠り居て。種々の智略を廻らし。終に呉王を亡ぼして。勾践乃本意を。達すとかや
「然るに勾践は。二度世を取り會稽の恥を雪ぎしも。陶朱功をなすとかや。されば越乃臣下にて。政事を身に任せ。功名富み貴く。心の如くなるべきを。功成り名遂げて身退くハ天乃道と心得て。小船に掉さして五湖乃。煙濤を楽しむ
地謡 「会稽山に籠もって数々の知略を廻らし、とうとう宿敵の呉王を滅ぼして、勾践の本望を遂げさせたということです。*1
「さて勾践が再び天下を取って、会稽山での恥辱をすすぐことができたのも、陶朱公の功績であったとか。そのため、陶朱公は越の重臣として政治を思うままに行い、手柄による高い名声、豊かな富、貴い身分、それらを望みのままに手にできたはずですが、功を成し、名を遂げた上は隠退するというのが天の道に適っている*2と考え、五湖に舟を浮かべ、遠く煙のように霞む風光を楽しみながら悠々自適の晩年を送ったのです。
「かゝる例も有明の 「このように、家臣が主君を助けて再び世に立たせた先例もあるのですから、
地謡 「月の都をふり捨てゝ。西海乃波濤に赴き御身乃科のなき由を。嘆き給はゞ頼朝も。終にハ嘆靡く青柳乃。枝を連ぬる御契り。などかハ朽ちし果つべき
「たゞ頼め
地謡 「我が君も都を振り捨て、西海の波路に赴いて、ご自身には何の罪科もないことを嘆願なされたなら、頼朝公も最後には青柳が風になびくように、その訴えを分かってくださるでしょう。兄弟*3の契りがそう簡単に朽ちてしまうはずがありません。
「ただ私に頼りなさい。
「たゞ頼め。標茅が原のさしも草 「ただひたすら私を頼りとせよ、娑婆世界の衆生たちよ。
地謡 「われ世乃中に。あらん限りハ 地謡 「私がこの世にある限りは、必ず救済しよう。*4
「かく尊詠の。偽りなくハ 「このようにおっしゃった清水観音の御詠歌に偽りがなければ、
地謡 「かく尊詠の偽りなくハ。やがて御代に出船乃。舟子ども。はや纜をとくとくと。はや纜をとくとくと。勧め申せば判官も。旅乃宿りを出で給へば 地謡 「この御詠歌に偽りがなければ、我が君もいずれ世に出ることができましょう。
 そういううちに、船出の準備がすすんでいる。船頭たちが早くも艫綱を解く。お早くお早くと、艫綱を解いて弁慶が乗船を勧めると、判官義経も宿をお出でになった。
「静ハ泣く泣く 「私は泣く泣く、
地謡 「烏帽子直垂脱ぎ捨てゝ。涙に咽ぶ御別れ。見る目も哀れなりけり見る目も哀れなりけり 地謡 「烏帽子・直垂を脱ぎ捨てて、涙にむせんで別れを悲しむ様子は、見るも哀れなものである。端で見ていても、哀れなことであった。


*1…中国の故事。陶朱公は越の重臣・范蠡(はんれい)の引退後の名前。越王・勾践は呉王・夫差に会稽山で破れて、捕虜となった。(これが会稽の恥。)その後、范蠡が勾践を助け、ついに呉を破った話に基づく。
*2…老子に「功成名遂、身退天之道」とあるのによった。
*3…「枝を連ぬる」は同胞兄弟の意味
*4…新古今集、清水観音の神詠。それでは、初句は「なほ頼め」としている。

■このシーン、そしてクセにもでてくる「会稽」は
越の王、匂践が臣下陶朱公の力を借りて呉の王を滅ぼした故事からとっています。
義経を匂践に弁慶を陶朱公になぞらえて、もっと弁慶がしっかりするようにといっているのだとか

■義経の送った「腰越状」には「会稽の恥辱を雪ぐ」という記述があります。
「会稽の恥」とそれをとっさに自分の芸に引用した静はさすが都一の白拍子といったところでしょうか
*腰越状・・・義経が大江広元にあてて出した書状。
頼朝不興を買った義経が無実を訴え、そのとりなしを依頼したもの


<ワキとアイの問答>
(船頭は静の様子を見て思わず涙したことを語り、弁慶に船の用意ができたことを告げる。)
辨慶 「静乃心中察し申して候。軈てお船を出さうずるにて候 弁慶 「静の心中を察すると、気の毒なことだ。だが、急いで舟を出すことにいたそう。
従者 「いかに申し候 従者 「申し上げます。
辨慶 「何事にて候ぞ 弁慶 「何事だ。
従者 君より乃御諚にハ。今日ハ波風荒く候程に。御逗留と仰せ出だされて候 従者 「我が君のご命令で、今日は波風が荒いため、ご逗留なさるとのことです。
辨慶 「何と御逗留と候や 弁慶 「何と、ご逗留と申されたか。
従者 「さん候 従者 「左様です。


辨慶 「これハ推量申すに。静に名残を御惜しみあって。御逗留と存じ候。まづ御思案あって御覧候へ。今この御身にてかよう乃事ハ。御運も盡きたると存じ候。その上一年渡邊福島を出し時ハ。以って乃外の大風なりしに。君御船を出し。平家を亡ぼし給ひし事。今以って同じ事ぞかし。急ぎお船を出すべし 弁慶 これは察するに、静との名残を惜しんで逗留なさるなどと言い出されたのだ。考えてもみよ。今このような追われる身となって、静への未練を見せて出発を遅らせるようでは、我が君のご運も尽きてしまわれる。それに、先年渡辺福島を出発したときは、大変な強風であったのに、我が君は舟を出して平家を滅ぼされた*1。今もそのときと同じこと。直ちに舟を出すべきである。
従者 「げにげにこれハ理なり。何処も敵と夕波乃 従者 「これはごもっとも。どこにでも敵がいるのだから。と、言って、
辨慶 「立ち騒ぎつつ舟子ども 弁慶 「夕波の立ち騒ぐ中を、船頭たちはあわただしく立ち働いて、
地謡 「えいやえいやと夕汐に。つれて船をぞ。出しける 地謡 「えいやえいやと掛け声をかけ、夕潮の中舟を漕ぎだしたのであった。
〈ワキとアイの問答〉
(船頭は弁慶の指示で船を出し、義経一行が乗り込む。船を漕ぎながら船頭は辺りの景色のことなどを話す。やがて嵐となり、波風が荒れる中、船頭は懸命に船を漕ぐ。)


*1…「渡辺」は淀川水運の発着点。「福島」は淀川河口の地。ともに現在の大阪市内。 同年二月に、義経は強風に乗じて八島に奇襲をかけた。このとき梶原景時と逆櫓のことで争い、これが後の讒言につながったとされる。


辨慶 「あら笑止や風が変わって候。あ乃武庫山颪弓弦羽が獄より吹き下す嵐に。この御船乃陸地に着くべき様もなし。皆々心中に御祈念候へ 弁慶 「ああ困ったことだ。風が変わってきた。あの武庫山颪や譲葉が岳*1から吹き下ろす嵐で、この舟が陸地に着くことはできそうにない。ご一同心の中でお祈りなさい。


*1…「武庫山」は神戸市の背後にある六甲山。「弓弦羽が嶽」は六甲山の山続きの山名。


従者 「いかに武蔵殿。こ乃御船にハ妖怪が憑いて候 従者 「もし、武蔵殿。このお舟には妖怪*1が憑いております。
辨慶 「あゝ暫く。さやう乃事をば船中にてハ申さぬ事にて候 弁慶 「待たれよ。そのようなことを舟の中で言うものではない。
<ワキとアイの問答>
(船頭が従者に抗議をし、弁慶がそれを取りなす。また波風が激しくなる。)
辨慶 「あら不思議や海上を見れば。西國にて亡びし平家乃一門。各々浮かみ出でたるぞや。かゝる時節を窺ひて。恨みをなすも理なり 弁慶 「ああ不思議だ。海上を見ると、西国で滅んだ平家の一門の者たちが浮かび出てきたことだ。こちらが悲運のときを狙って恨みを晴らそうとするのも、もっともなことだ。
義經 「いかに辨慶 義経 「弁慶よ。
辨慶 「御前に候 弁慶 「ここにおります。
義經 「今更驚くべからず。たとい悪霊恨みをなすとも。そも何事乃あるべきぞ。悪逆無道のそ乃積り。神明佛陀乃冥感に背き。天命に沈みし平家の一類 義経 「今更驚くこともない。たとえ悪霊が恨みを晴らそうとしても、どれほどのことがあるものか。
 人の道に外れた悪事不法を積み重ね、神仏の御心に背き、その結果天命によって没落した平家の一類ではないか。
地謡 「主上を始め奉り一門の月卿雲霞の如く。波に浮かみて見えたるぞや 地謡 「安徳天皇*2をはじめとして、一門の公卿や殿上人が大勢、波に浮かんで見える。


*1…海の妖怪。船幽霊。平家の亡霊が船幽霊となり、害をなすと考えられていた。
*2…「主上」は天皇の意。ここでは、幼くして壇ノ浦に沈んだ安徳天皇をさす。 

■従者が船頭に怒られます。
自分の舟に妖怪が憑いてるなんて言われたら怒りますよね。


知盛 「そもそもこれハ。桓武天皇九代乃後胤。平乃知盛。幽霊なり。
「あら珍しやいかに義經。思いも寄らぬ浦波乃
知盛 「そもそもこれは、桓武天皇から数えて九代目の子孫、平知盛*1の幽霊である。
 ああ、久しいな、義経よ。思いも寄らぬ所で再会したものだ。浦波の、
地謡 「聲をしるべに出船乃。聲をしるべに出船乃 地謡 「波の音を手がかりに現れ、おまえが船出する声をたよりとして、あの世から現れいでて、
知盛 「知盛が沈みしその有様に 知盛 「私が壇ノ浦の水底に沈んだのと同じように、
地謡 「また義經をも海に沈めんと。夕波に浮かめる長刀取り直し。巴波乃紋邉を拂ひ。潮を蹴立て悪風を吹きかけ。眼も眩み。心も乱れて。前後を忘ずるばかりなり 地謡 「またおまえも海に沈めてやろうと言って、夕波に浮かべてあった薙刀を取り直し、波が巴波の紋*2を描くほどに振り回して辺りを斬り払い、潮を蹴立て、毒風を吹きかけるので、義経一行は眼もくらみ、心も乱れ、どうしてよいか分からない状態になってしまった。
義經 「そ乃時義經少しも騒がず 義経 「そのとき私は少しも騒ぎ立てず、
地謡 「その時義經少しも騒がず。打物抜き持ち現乃人に。向ふが如く。言葉を交わし。戦ひ給へば。弁慶押し隔て打物業にて叶ふまじと。數珠さらさらと押し揉んで。東方降三世。南方軍茶利夜叉。西方大威徳。北方金剛叉明王。中央大聖。不動明王乃索にかけて。祈り祈られ悪霊次第に遠ざかれば。辨慶舟子に力を合はせ。お船を漕ぎ退け汀に寄すればなほ怨霊ハ。慕ひ来るを。追っ拂い祈り退けまた引く汐に。ゆられ流れ。また引く汐に。ゆられ流れて。跡白波とぞ。なりにける 地謡 「そのとき義経は少しも騒がず、太刀を抜き持ち、生きている人間に立ち向かうようにして言葉を交わし、戦った。弁慶はこれを押し隔て、武器で交戦しても敵う相手ではないと、数珠をさらさらと揉んで、

「東方の降三世明王、南方の軍荼利夜叉明王、西方の大威徳明王、北方の金剛夜叉明王、そして中央におわします不動明王の手にする縛縄の威力によって、どうか悪霊を呪縛してください。」*3

と祈った。悪霊は調伏されて、次第に遠ざかっていったので、弁慶は船頭と力を合わせて船を漕ぎ、岸辺に寄せたが、なおも怨霊は追いすがってくるのを、追い払い、祈り退けた。怨霊は引いてきた潮に揺られ流れ、引き潮に揺られ流されて、跡知れず波間に消え失せ、戦いの跡には白波があるだけとなったのだった。

                〈終〉


*1…平知盛(一一五二〜一一八五)。清盛の三男。実際は桓武天皇から数えると十三代目にあたる。壇ノ浦で、「見るべきほどのことは見た。」と言い、鎧二領を着て海中に沈み自害した。
*2…渦巻く波模様をかたどった紋。
*3…五大尊明王(不動明王を中心に、四方に鎮座する密教の神)に助力を乞う祈祷の文句。  

装束・面・作り物紹介、要約・・前シテ

全訳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・後シテ


おわり。