能楽「船弁慶」
装束
*1‥西塔【さいとう】 比叡山延暦寺の三塔の一つ。他に東塔・横川がある。 *2‥判官【ほうがん】 検非違使の通称。義経がその職にあったので、もっぱら義経のことを指していう。 *3‥つまらぬ者 梶原景時のこと *4‥大物の浦【だいもつのうら】 摂津の国河辺郡(兵庫県)。大物の浦は当時西国往来の舟の発着地だった。 *5‥文治初年【ぶんじしょねん】 義経都落ちは文治元年(一一八五)十一月三日。 *6‥石清水【いわしみず】 山城国の石清水八幡宮。武家の崇敬が深かった。 |
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*1・・静御前(一一八五?〜?)。義経の愛妾。磯禅師の娘。 白拍子の舞手として有名。大物の浦で別れたというのは作者の創作で、 『義経記』では、吉野山で別れたとされている。 *2・・「あら何ともなや候」・・・失望・落胆・自嘲・困惑の気持ちを表す語。 *3・・「大事」などという大げさな言葉を用いたのを咎めた言い方。 *4・・人目を避けて逃げ延びる人。 *5・・九州。 |
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■「よくよく物を案ずるに。これハ武蔵殿の御計らひと思ひ候程に。」は静の独り言。 なので弁慶の方を向かずに話します。 |
*1…「木綿四手」・・・神に供える幣。「涙を流し言う」と掛けてある。「神」の枕詞でもある。 *2…藤原公任の和歌。「別れよりまさりて惜しき命かな 君にふたたび逢はんと思へば」からの引用。意味は訳を参照。 *3…「聞く」と「菊」の掛詞。長寿を祝する盃。 *4…「和歌」は白拍子舞の序曲をなす今様。具体的には、次ページの「渡口の郵船は・・・」の一節。 *5…和漢朗詠集、小野篁「渡口郵船風定出 波頭謫所日晴見」に基づく。篁が隠岐へ流された後、免罪され、帰還を許されたときの詩。船出に当たり、平穏を寿ぎ、召還を予祝した。 配所は配流の場所で、ここでは隠岐のこと。都に帰る船上から、遠ざかっていく隠岐を眺めている情景を詠んだ。 *6…烏帽子・直垂は白拍子である静の舞装束 |
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■舞台で付けるのは烏帽子のみですが、実際は直垂も着ています。 想像してみてくださいね |
*1…中国の故事。陶朱公は越の重臣・范蠡(はんれい)の引退後の名前。越王・勾践は呉王・夫差に会稽山で破れて、捕虜となった。(これが会稽の恥。)その後、范蠡が勾践を助け、ついに呉を破った話に基づく。 *2…老子に「功成名遂、身退天之道」とあるのによった。 *3…「枝を連ぬる」は同胞兄弟の意味 *4…新古今集、清水観音の神詠。それでは、初句は「なほ頼め」としている。 |
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■このシーン、そしてクセにもでてくる「会稽」は 越の王、匂践が臣下陶朱公の力を借りて呉の王を滅ぼした故事からとっています。 義経を匂践に弁慶を陶朱公になぞらえて、もっと弁慶がしっかりするようにといっているのだとか。 ■義経の送った「腰越状」には「会稽の恥辱を雪ぐ」という記述があります。 「会稽の恥」とそれをとっさに自分の芸に引用した静はさすが都一の白拍子といったところでしょうか *腰越状・・・義経が大江広元にあてて出した書状。 頼朝不興を買った義経が無実を訴え、そのとりなしを依頼したもの |
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*1…「渡辺」は淀川水運の発着点。「福島」は淀川河口の地。ともに現在の大阪市内。 同年二月に、義経は強風に乗じて八島に奇襲をかけた。このとき梶原景時と逆櫓のことで争い、これが後の讒言につながったとされる。 |
*1…「武庫山」は神戸市の背後にある六甲山。「弓弦羽が嶽」は六甲山の山続きの山名。 |
*1…海の妖怪。船幽霊。平家の亡霊が船幽霊となり、害をなすと考えられていた。 *2…「主上」は天皇の意。ここでは、幼くして壇ノ浦に沈んだ安徳天皇をさす。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
■従者が船頭に怒られます。 自分の舟に妖怪が憑いてるなんて言われたら怒りますよね。 |
*1…一平知盛(一一五二〜一一八五)。清盛の三男。実際は桓武天皇から数えると十三代目にあたる。壇ノ浦で、「見るべきほどのことは見た。」と言い、鎧二領を着て海中に沈み自害した。 *2…渦巻く波模様をかたどった紋。 *3…五大尊明王(不動明王を中心に、四方に鎮座する密教の神)に助力を乞う祈祷の文句。 装束・面・作り物紹介、要約・・前シテ 全訳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・後シテ |