■第十回 淡海能■
学長挨拶 滋賀県立大学学長 曽我直弘 滋賀県立大学能楽部の淡海能の自演会が彦根城博物館内の能舞台で今年も開催される。これまで彦根城博物館を何度か訪れ、本格的な能舞台の造りに感銘を受けてきた。それに関連して数年前に佐渡で見かけた能舞台を思い出す。そこでは神社の拝殿を兼ねたり、拝殿に付属したりするものが多く、能が多様な形で庶民に親しまれているという感じがした。 滋賀県内に能楽堂がいくつあるか正確には知らないが、琵琶湖よりも少し大きい佐渡島には三十二の舞台が現存するそうである。かつては二百以上もあったということから、能舞台が村々の鎮守の森の祭りの場としての役割を担い、能が庶民の間に広まっていったことが窺われる。佐渡能はもともと世阿弥の佐渡流刑でもたらされたが、このような庶民の中への浸透と独特の佐渡能としての発展には、能楽師であった佐渡金山初代奉行大久保長安の保護に加えて本間秀信の宝生座開設と普及活動によるところが大きかったと云われている。特色ある地域文化をどのように育てていくかについて考えさせられる事例である。 県立大学では次世代の人材養成と地域社会への貢献を目指した教育研究活動を進めるなかで、その成果を社会にどのように示していくかにも心を砕いている。能楽部の学生が自主的に能楽、謡、囃子、舞などの古典芸能を習得し、それを学外施設で一般の方に見てもらい、批判を受けるという活動は、大学から社会へという流れで意義深いと思う。 |
顧問挨拶 滋賀県立大学能楽部顧問 野間 直彦 淡海能においでいただき誠に有難うございます。滋賀県立大学の創立後まもなく、第一期の学生達が前顧問の脇田晴子先生の助言を得て活動を始めた能楽部は、十周年を過ぎ、淡海能も十回の節目の会を迎えました。これは、いつも懇切なご指導をいただいている 深野新次郎先生・深野貴彦先生、ご出演の先生方、部員達の舞を楽しみにして応援下さっている地域の皆様、貴重な能舞台を何度も使わせて下さり広報にもご協力頂いている彦根城博物館と彦根市の皆様、学内外の関係者の皆様方のお陰と、深く感謝いたしております。 今回の能「船弁慶」の前半のみどころは静御前の別れの舞です。クセの謡は大変美しいのですが、「会稽の恥を雪ぐ」にまつわる故事を多く引いた文章はかなり難しく、知っていないと聞いただけでは何のことかわからない箇所があります。その場合、部員達のもう一つの苦心の作であるこの冊子をご参照いただければと思います。 淡海能では第六回にも船弁慶を出しました。晴れて舞台に陽が射していたのですが、後半の船の場面で武庫山の上に出た雲が広がる頃から曇ってきて、嵐とともに知盛の亡霊が活躍する場面では雨が降りそうな暗さになり、終わったあとは再び晴れていました。野外の舞台の面白さです。 他の演目もこの一年の成果です。どうぞ楽しんでご覧下さい。 |
連吟・竹生島 醍醐天皇にお仕えしている朝臣が竹生島参詣を思い立ち、やってくる。 琵琶湖に着くと、丁度良いことに向こうから老人と娘の乗る釣り船が一艘やってくる。これ幸いと便船を乞うは図々しいというべきか。渡し舟ではないのだと、はじめは断る老人も、せっかくの参詣なのだからと、朝臣を乗せて船を出す。 船上から見る春の景色は桜がまるで雪のよう。 竹生島を見れば、島を覆う緑の樹々が影を湖水に映している。 魚はその樹々の影を縫い、まるで木に登っているかの様に泳いでいる。 月が湖面に映るときは、月に住む兎も波間を駆けていくのだろう。 嗚呼なんと素晴らしいと見るうちに、やってきました竹生島。弁財天の神前まで、案内をしてきた老人と娘に、ふと疑問を抱く朝臣。女人禁制と聞いた竹生島に、なぜに娘がついてくる? 弁財天は女の神。それで女を分け隔てするはずがない、女性も成仏させてくれる神様なのだ、と二人は話し弁才天の徳について語る。 やがて娘は「私は人ではない」と言って社殿に消え、そして老人も「私は琵琶湖の主だ」と言って湖中に没する。 しばらくして、社殿から現れたるは弁財天。音楽が鳴り響き、花が降る。袂をひるがえして舞うその姿に、見とれるうちに湖中より、湖面に波立て現れいでたるは龍神さま。捧げもった金銀の珠玉を朝臣に授け、勇壮に舞い、国土鎮護を約束する。 私は竹生島に行ったことはないのですが、謡われているように素晴らしいところなら、ぜひ一度行ってみたいと思いますね。…ね?
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仕舞・小袖曽我 曽我十郎祐成(すけなり)・五郎時致(ときむね) 兄弟は父親の敵、工藤祐経(すけつね) を狙っていました。彼らの父親は祐経の所領争いに巻き込まれ、殺されたのです。そんな折、源頼朝が富士の裾野での狩を催します。祐経も狩に参加すると知った二人は、敵討ちの機会と見て家人、団三郎・鬼王とともに、母のもとに暇乞いにやってきます。 ところが五郎は出家するよう箱根の寺に預けられていたのを、母には無断で寺を出た事で勘当されていました。それゆえ母は十郎には会うものの、五郎には会おうとしません。 十郎は五郎を母の前に連れ出して説得しますが、母は手強くなかなか許してくれません。それどころか重ねての勘当を言い渡される始末。しかし言葉を尽くしての訴えに、兄弟が泣く泣く出て行こうとしたその時に母は声をあげて留め、ついに五郎の勘当を許すのです。 兄弟は喜び勇んで別れの舞を舞い、仇討ちの決意も新たに狩場へ向かうのでした。 実は母が形見の小袖を与える場面は、能のもととなった『曽我物語』ではあるのですが『小袖曽我』中では存在しません。看板に偽りありですね。 仕舞は最後の兄弟が勘当を許され、喜んで舞う場面となります。 兄弟なので二人で舞う型もあるのですが、今回は一人で舞います。
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仕舞・班女クセ いつの世も、女は男の約束を信じて待ち続けるものなのでしょうか。美濃国野上の宿の遊女・花子(はなご) もその一人。花子は吉田少将と恋におち、互いの扇を交換します。少将は秋に必ず迎えに来ると言い、去ってしまいます。残された花子は客もとらず、約束を信じて自分の部屋にこもる日々。形見の扇を抱いて、ひたすらに少将を待ち続けます。その様子から、彼女は班女と呼ばれるのです。 班女とは、前漢の成帝の寵妃・班?、(はんしょうよ) からとったあだ名です。彼女は、夏は重宝されるが秋には忘れ去られる扇に、我が身をなぞらえて詩を詠んだと言われています。また、この秋の扇には「捨てられる」という不吉な意味が含まれております。約束の秋が過ぎ、雪の降る季節になっても、愛しいあの方の訪れはない……。 扇は「逢ふ儀」と同音であることから、再会の約束を意味します。さらに、花子の吉田少将に対する愛情を映すものであり、嘆き、悲しみ、恨みの象徴でもあります。そんな扇を手にして、班女・花子は捨てられたと思いつつも、どうしても少将のことが忘れられないのでした。 演じるのは、この少将を待ち続けている部分です。 その後、とうとう花子は野上の宿から追い出されてしまいます。ようやく吉田少将が訪ねても、そこに花子の姿はありません。失意のうちに少将は糺の森へと赴き、そこで少将は偶然にも狂女となった花子と出会います。互いの扇を確認して、ついに二人は再会を果たすのでした。
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素謡・吉野天人 昔、都に毎年あちこちの桜を眺める男がいました。特に嵐山の桜を気に入っており、毎年欠かさずに眺めるほどでした。しかしこの嵐山の桜、実はもともとこの地に生えていたものではなく、吉野の桜を移し植えたものらしいのです。そんな話を聞いた都人は、仲間と共に吉野の桜を見に、大和国へと向かいました。 古来より、吉野の山は桜の名所として名高いところです。尾根から谷にかけて、下の千本、中の千本、上の千本、奥の千本と順に咲き続け、桜の花が雲のように渦巻くほどと言われております。 そんな吉野の山に到着した一行。桜の花も例年になく、美しく咲き誇っております。吉野山はあたり一面桜で覆われ、朝露を帯びた花が、また際立って美しく見えます。一行は、さらに奥深くへと進んでいくことにしました。 しかし、彼らにいきなり呼びかける声があります。見れば、こんな山中で出会うにしてはやけに高貴な女性です。さすがに怪しく思った都人が女性に尋ねると、彼女は花を友のようにして、山の中で暮らしているとのこと。さらに、共に花を愛でる友人の間には、前世からの縁があるのだろうと言われます。その言葉に誘われるまま、都人は彼女と一緒に花を眺めることにしました。もとより花を愛する心は同じなので、都人達と女性はいつしか打ち解けていきます。 しかしこの女性、いつまで経っても帰る気配をみせません。再び不審がる都人が訪ねてみると、彼女は実は天人なのだと告白します。桜の花があまりにも見事なので、惹かれて来たそうなのです。天人はさらに、今夜ここに泊まって私の言ったことを信じてくださるのなら、古の五節の舞をご覧入れましょう、と言い残し去ってしまいます。 そのうちに、いつの間にか夜になってしまいました。すると、どこからともなく音楽が聞こえ、妙なる薫りが漂い、さらに天から花まで降ってくるのです。このような奇跡が起こるなど、天下泰平の御世であるからこそだと、一行が言い終わるか否かの時、ついに天人が地上に降り立たったのです。天人は春風に澄み渡る琵琶や琴などの楽の音にあわせ、花に戯れながら舞い始めました。もちろん、五節の舞であります。 五節の舞は、天武天皇が吉野に行幸した際に、天人が袖を五度翻して舞ったことがそもそもの由来であり、大嘗会や新嘗祭における五節の舞は、これを真似たものといわれています。また、その舞を見て、六歌仙の誉れ高い僧正遍昭が、 天つ風 雲のかよひ路 拭きとぢよ をとめのすがた しばしとどめむ と、詠んでいます。舞姫の姿を引きとどめたいと詠うところからも、この五節の舞の美しさがうかがえるようです。 月下の夜の舞姫は、花の梢に舞い上がったり、飛び降りたりしながら、しきりに君が代をたたえます。そして、舞が終わると共に、天人は何処からか現れた花の雲に乗って、再び天に帰ってしまうのでした。
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素謡・嵐山 「桜の名所…といえば、奈良の吉野山。しかし、都からはちょっと遠くて、花見に行くのも容易でない。そこで、吉野山の桜から種を取り、都の西にある嵐山に植えたのだという。 今年も花見の季節がやってきた。今春の桜の様子を見てくるようにとの宣旨を受けて、私は今、その嵐山へと向かっている。 嵐山を遥かに見ると、山全体が花の色に染まっている。さすがは都で指折りの桜の名所。かの柿本人丸が花か雲かと眺めたという吉野の桜に、勝るとも劣らぬ程の美しさだ。 ようやく嵐山に着いた。この辺で一休みして、ゆっくり花を眺めるとしよう。 おや、あの老人たちは花守であろうか。二人で桜の下を掃き清めている。しかし、桜に向かって礼拝しているのは何故だろう。不思議に思い尋ねてみると、老人は答えた。「嵐山の桜は皆、御神木なのでございます。」 「この山の桜が御神木とは、一体どういうわけですか?」 「嵐山の桜は、もともとは吉野山の桜から種を取ったものですので、吉野におられる子守明神・勝手明神の夫婦が、時折花のもとに姿をお見せになります。それゆえに、御神木とされるのです。」 「ところで、“嵐山”が花の名所とは、何やら矛盾していますね。嵐とは本来、花が忌み嫌うもののはず。“さしもこそ 厭ふ憂き名の 嵐山 花の所と いかでなりけん”と昔の歌に詠まれているのも、もっともなことです。」 「嵐山の桜は、吉野山の神様に守られているので、嵐の名を持つこの山にあっても、風に吹き荒らされる事はないのです。勝手明神・子守明神とはその名の通り、風にも打ち勝ち(かつて)、木を守る(こもり)神様なのですよ。」さらに老人は言った。「その子守明神・勝手明神とは、実は我ら夫婦のことなのです。」 やがて、日の暮れかかる頃、老人たちは雲に乗り、吉野山のある南の方角へ飛び去って行った。「夜が来るのを待っていて下さい。」と言い残して…。 その夜、子守明神と勝手明神が桜のもとに姿をお見になった。満開の桜の中、二人は楽を奏で、袖を翻して舞い遊ぶ。 「吉野山の桜の種を植えた、ここ嵐山も、今まさに花盛り。 大堰川を隔てて向こうに見える小倉山は、吉野の青根が峯を目の前に見るようだ。」 「この穏やかな春が萬代までも続くように、さあ、囃そう、囃そう。」 時のたつのも忘れて神々の舞楽に見とれているうちに、南の方角から芳しい風が吹いてきた。空には瑞雲が靉き、金色の光が射している。そして…ついに、吉野金峯山の本尊・蔵王権現が、その威厳に満ちたお姿を現された。蔵王権現は、国土を守護し、衆生を救済する誓いを顕わし、子守明神・勝手明神らとともに、花に戯れ遊ぶ。。桜も峯も金色に輝く嵐山の有様は、まさに金峯山だ。 ああ、春爛漫だなぁ。
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舞囃子・高砂五段 「高砂」という言葉を聞いたことがありますか? それは恐らく結婚式などのおめでたい場でではないでしょうか? では、おじいさんとおばあさんが松の木の下を掃き清めている絵や置物を見たことがありますか? それが高砂に出てくる2人の老夫婦です。 九州肥後国にある阿蘇の宮の神主・友成は、肥後から都に上るついでに、高砂の浦を見にやって来ます。高砂といえば有名なのが相生の松。友成はその松を見たいと思い、近くの木の下を掃き清めていた老夫婦に、相生の松はどれか、と尋ねます。相生の松は夫婦の松。きっと寄り添うように立っているのだろう。しかし予想に反して、相生の松は高砂と住吉という離れた場所に生えているというではありませんか。友成はその理由を聞きます。老翁曰く、夫婦とは場所は離れていても心は通じ合っているもの。松もまたそうなのだと。納得した友成は、この高砂について詳しく語る老夫婦の素性を尋ねます。すると老翁は、自分達は実は高砂と住吉の松の精だと明かします。そして住吉で待つと言い残し、小船に乗って波の間に消えてゆきました。 月の光の下、友成は言われた通り、高砂の浦を渡り住吉へと向かいます。船に乗っていると、遠くに住吉が見えてきました。住吉に着くと、先ほどは老翁であった人が住吉明神の姿となって現れます。そしてその住吉明神は天下泰平、国土安穏を謡い、舞うのでした。 この高砂の舞囃子は神舞といい、その名の通り神様の舞です。テンポの早い囃子、颯爽とした舞が魅力です。
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舞囃子・敦盛 寿永三年(一一八四)、一ノ谷の合戦において源氏は平氏を打ち破り、平氏の軍は海上に退却を始めていました。源氏の武士である熊谷次郎直実が武勲を求めて戦場を駆け巡っていたところ、波打ち際で一人の若者を見つけました。どうやら、退却する平氏の船に乗り遅れてしまったようです。退路を求め馬を駆る若武者に、直実は一騎討ちを申し込みます。一騎討ちを申し込まれた若武者は、意を決し同じく馬を直実の方に走らせます。二人は、数度波打ち際で太刀を交えました。しかし歴戦の武人である直実に敵うはずもありません。馬から引き落とし直実はそのまま討ち取り武勲をあげようとします。しかし、打ち合っている時には気が付きませんでしたが、その武者はまだ十五、六の若者でした。息子と同じ年頃の若者を手にかけることを直実はためらいます。彼は見逃そうと考えますが、仲間が集まってきた以上、敵を逃すことはできません。 結局、直実はその若武者を自分の手で討ち取りました。若武者の名は平敦盛。上皇にも認められた笛の名手でした。直実は、これをきっかけに出家し蓮生法師となりました。 後年、蓮生が供養のため一ノ谷に赴くと、笛の音が聞こえてきます。それは丘で草を刈る男の一人が吹いていたのでした。他の草刈り男たちが帰るなか、笛を吹いていた男だけは残っています。彼は蓮生に十念(南無阿弥陀仏を十回唱えること)を頼みます。蓮生が十念を唱えると彼は感謝し、消えていきます。実は彼は蓮生に殺された敦盛の霊でした。 一旦は去った敦盛でしたが、その夜蓮生のもとに生前の姿で再び現れました。敦盛は平家が栄華の極みから没落していく様を語り、舞います。そして彼は一ノ谷の合戦での蓮生との戦いを再現します。やがて戦いの勢いそのままに蓮生に襲い掛かりますが、敦盛は刀を下ろします。敦盛は自分を殺した直実を恨んではいませんでした。現世では敵でしたが己の菩提を弔ってくれたことを感謝し、敦盛は成仏していくのでした。
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仕舞・蝉丸道行 いよいよ都をでる時分になった。私の心持のせいだろうか。今日は鴨の鳴く声も悲しく聞こえる。鴨川を渡って、白川を渡る。この先どうなるのだろう。行く末を知らない、なんてぞっとする。粟田口に着いた。この先の道を松坂というが、このような身で一体誰を待つというのか。まだ先だと思っていた音羽山もいつしか後ろに遠ざかり、逢坂の関まで来てしまった。もう二度と都に戻る事は出来ないのだ。本当になごりおしい。 日が暮れてきた。松虫、鈴虫、キリギリス、山のほうから聞こえる秋の虫の音に、心もしんみりとする。山科の里の人々よ、私を咎めるな。身なりはおかしいかもしれないが、私の心は滝川のように清く澄み切っているのだから。 空に満月がかかる頃、やっと近江の国まで来た。これが有名な走井の水……水に映るその姿は。あぁなんとみすぼらしい。これが私なのか。髪は酷くもつれ、化粧も乱れて。これでは逆髪と呼ばれてもしかたない状態だ。水の鏡に映る逆髪は、間違いなく自分なのだ。これが現実なのだ。 落ち込む私の元に琵琶の音が聞こえてきた。そこに居たのは弟の蝉丸。二度と会えないと思っていた弟に会えるとは、なんと嬉しい事だろう。私たちは本当に不遇な兄弟だ。天皇の子に生まれながら逆髪、盲目の為に都を出なければならなかった。蝉丸と語らうのは本当に楽しく、名残も尽きない。けれども、もう出発しよう。ここにいても互いの傷をなめあうだけ。現実が変わることはないのだから。
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舞囃子・菊慈童 中国、魏の文帝に仕える臣下が、霊水の源を探れ、との勅命を受けて遥々レッケン山までやって来ました。するとそこに一人の少年が現れ、この深い山の中、枕とともに一人寝をする身を嘆いています。臣下が名を尋ねると、その少年は周の穆王(ぼくおう)に仕えた慈童だと答えます。それはおかしい。なぜなら穆王の時代からはもう七百年もの時が過ぎているのです。臣下が怪しむと、慈童は、穆王から授かった枕に書かれていた法華経を菊の葉に書き付けておいたところ、その葉から滴る露が薬の水(薬酒)となり、それを飲むことにより不老不死の身となったと言うのです。そうして仙人となった慈童は、その菊水を汲んで臣下にも勧め、長寿を帝に捧げて仙家の中へと消えていきました。 さて慈童と枕の関係はというと、穆王に寵愛されていた慈童が誤って王の枕をまたいでしまいます。その罪でレッケン山に捨てられてしまいました。しかし慈童には悪気があったわけではないので、かわいそうに思った王が、法華経の一部を授けたのでした。 私は今回舞囃子、楽(がく)を舞います。楽とは、唐人や老人の神、舞楽(雅楽)を舞う楽人、そして天仙などが舞う舞です。リズミカルな舞で、独特のメロディーとだんだん速まるテンポが特徴です。舞の随所で足拍子を多用しています。 慈童が不老不死の身となった理由を述べた後、「面白の遊舞やな」と楽を舞い始めます。そして「所はレッケンの、山の滴り、菊水の流れ」と山を見上げ流れを見やり、菊水を汲んで施し自分も飲みます。膝をつき枕を戴き、「げにもありがたき、君の聖徳と、岩根の菊を、手折り伏せ、手折り伏せ」と顔を袖で覆って酔い伏せます。そして「もとより薬の、酒なれば」と謡い、七百歳の寿命を帝に授け、「菊かき分けて、山路の仙家に、そのまま慈童は、入りにけり」と帰っていきます。 永遠の若さ、うらやましいものです。しかし永遠の命、孤独に生きる慈童を思うと、少し切なくなりますね。
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連吟・猩々 中国の揚子の里に、高風という男が住んでいました。彼は親孝行者だったので、市でお酒を売れば、次第にお金持ちになれるという不思議な夢を見て、実行するとたちまちその通りになりました。さて、またひとつ不思議なことがあります。市が立つたびにお酒を飲みに来る人がいるのですが、何杯飲んでも顔色が変わらないのです。名前を聴くと、海に住む猩々だと言います。高風はその言葉を信じて、夜、海辺で彼を待ちます。菊の酒を壷に湛え、お酒を飲みながら。月(つき) は杯(さかづき) に通じますから、杯の中に月が映る様子は、月の中に月が浮かんでいるようです。そんな風に猩々も海上にぽっかりと浮かび現れました。秋風が吹いても寒くはありません。菊の着せ綿で暖めるように、菊の酒を温めて飲むのですから。見て下さい、月や星が空一面に輝いていますよ。葦の葉がさざめくのを笛の音、波が打ち寄せるのを鼓の音として、舞を舞いましょう。吹き寄せる秋風も囃しているように聴こえます。ありがとう、あなたは心の素直な人なので、この壷に再びお酒を湛えて、返しましょう。 壷に入ったお酒は絶えることはありませんよ。いくら酌んでも尽きることなく、飲んでも量は変わりません。杯を傾けるうちに、月が傾いてきました。ずいぶんと飲みましたね。入江には葦(あし) が枯れ立っています。猩々の足(あし) は、立っているけれども、よろよろとしています。ああ、酔っ払って倒れてしまいました… しかしそれもまた高風の夢だったのです。目が覚めた、と思ったのですが、お酒の入った壷は夢の中のものではなく、そのままそこにありました。尽きることのないお酒のように、高風の家は永く栄えました。なんとめでたいことでしょう。
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番外仕舞・柏崎道行 越後国(現在の新潟県)柏崎の領主・柏崎殿は訴訟のために滞在していた鎌倉で風邪をこじらせて死んでしまった。共にいた息子の花若は父の死を嘆き、出家し、行方知れずとなってしまった。柏崎殿の従者・小太郎は形見の品と花若の手紙を花若の母に渡すため、柏崎へとやってくる。 夫の死と息子の出奔を知らされ、彼女は流れる涙を止めようもなかった。離れて暮らすようになってからも夫への思いが心から離れない。これからもこの思いが消えることはないだろう…。その上、息子までいなくなってしまうとは。子供が一番の形見であるというのに。彼女もまた悲しみのあまり、物狂いとなり、花若を尋ね旅立って行った。 柏崎を出で、越後の国府、常盤の里、木島の里、浅野、井の上を経て信濃国(現在の長野県)にある善光寺へと至る。寺の僧にお堂の内陣は女人禁制であるからと、止められるが、経説によって反論し、なんとか本尊を礼拝し、夫の形見を捧げる。本尊の生身如来よ、どうか死んだ夫をお導き下さい。夫の形見の烏帽子と直垂を着け、妻は仏前で舞う。舞うのは極楽浄土を渇望する思い。舞っているうちに、彼女は気付く。さっきの僧の弟子の一人が息子の花若であると。先ほどからもしや、と思っていたが、間違いなく花若。彼女は再会を心の底から喜ぶのであった。
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番外仕舞・放下僧小歌 牧野小次郎とその兄は「放下」と「放下僧」という芸能者となって、父親の仇討ちの機会を狙う。そしてついにその機会がやってきた。兄弟は相手の不審をとくために禅問答を行い、さらに芸を始める 京の美しさは筆舌に尽くしがたい。まずは祇園清水、うわさに名高い音羽の瀧。瀧の音、そして風に吹かれて散る地主の桜もまた素晴らしい。西といえば法輪寺、そして嵯峨の御寺こと清涼寺。さあ、これらを見物して廻ろう。廻るといえば水車の輪。臨川堰の水車が川に波を立てる。 川柳といえば水になびくもの。小雀は竹林に住むもの。都の牛を走らせるのが車で、茶臼を動かすのが挽き木だ。あぁ、これはうっかりしていた。コキリコを鳴らすのは他でもない放下であるよ。 コキリコの二つの竹を打ち鳴らし、「代」と「代」を重ねてうち治まった今の御世を祝おう。 さあ、今は何も隠すことはない。敵の油断に乗じて、兄弟はともに剣を抜いて親の敵に走りよった。長い年月の恨みの末に、今、願いが叶った。このように敵を討つことも、親孝行の気持ちが深いが故である。こうして二人はその名を末代まで留めたのであった。 コキリコとは放下の使った楽器で、小さな竹筒の中に小豆を入れたものです。これを一本ずつ両手に持ち、打ち鳴らして拍子をとりました。
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番外仕舞・鵜之段 今の山梨県へ行脚に出た僧が、石和川のほとりに着きました。僧は土地の人に一夜の宿を頼みますが、旅人を泊めることは禁じられていると断られてしまいます。そのかわりにと川辺の御堂を教えられ、そこに泊まることにしました。 すると鵜を休めるために、鵜飼の老人が立ち寄ります。老人は殺生を業とする身のつらさを嘆きます。僧が殺生をやめるように言うと、若い頃からこれで生計を立てているから、今更やめることはできないと答えます。またお供の僧も、二、三年前にあなたのような鵜使いに泊めてもらったと言うと、自分こそが実はその鵜飼で、禁猟中の密漁の罪でふしづけの刑(簀巻きにして川に沈める刑=死刑)に処せられたと言います。 そこで僧の勧めにより、懺悔の為に鵜飼の様を見せ始めます。漁を終えると老人は暗闇に閉ざされてゆく悲しさ、鵜を使う事の面白さへの名残惜しさを静かに訴え、夜の闇に消えてゆきました。 その後、土地の者からも死刑になった鵜飼の話を聞いた僧は、法華経の文句を一石に一字ずつ書き、川に沈めて供養します。すると地獄からの使者が現れます。老人は地獄へ落ちるはずでしたが、法華経の功力によって救われた事、極楽へ送ると決まった事を告げ、法華経を讃えます。 今回の「鵜之段」は老人が鵜飼の様を僧に見せるところです。松明の元、若鵜を籠から川へと放ち驚いた魚を追いまわします。この時鵜飼は罪も忘れ漁に夢中になるのでした。
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能楽 船弁慶 こちらは能楽「船弁慶」のあらすじを紹介しています。皆さんの鑑賞の手助けとなれば幸いです。 船弁慶は前半と後半でまったく違う人物を主人公にしています。(前半は静御前、後半は平知盛。) 前半は義経と静の離別のシーンをしっとりと、後半は義経と知盛との対決を激しく演じます。前半、後半のガラリと変わる雰囲気も楽しんで下さい。 ●●あらすじ●● 源九郎義経は、兄頼朝の不興を買い西国へ逃れる途中であった。都を出て摂津国尼ヶ崎大物浦を目指す。そこから船に乗り水路で九州へ向かう予定である。総勢十余名、とぼとぼと落ちてゆく光景は、平家追討時の華々しい様子とは対照的なものになってしまった。 一行の中には義経の愛妾であった静御前がこっそりと加わっていた。義経を慕い、どこまでもお伴するつもりだったのだ。しかし、尼ヶ崎で義経に説得されて、一人都へ戻ることとなる。義経の忠臣である武蔵坊弁慶は、静に船出を祝って舞うようにと勧める。義経の船出は静との別れを意味する。静は悲しみながらも舞い、いつか頼朝の怒りがとけること、二人が再会できることを祈った。 出航の時が近づき、船をつないでいた綱が解かれる。涙ながらに義経を見送る静の姿は、それを見る者たちの涙をも誘うのだった。 こうして海へ出た義経一行であったが次第に雲行きが悪くなり、波も高くなってきた。風も強く吹き陸地につけそうもない。さらに悪いことには、滅んだはずの平家の武将たちが亡霊となって次々と現れたのである。壇ノ浦で入水した平知盛の亡霊が義経に襲いかかってきた。しかし義経は少しも怯むことはない。まるで生きている人間と戦うかのように名乗りを上げて切り結んだ。義経は勇敢に戦うが相手は悪霊、いくら剣を交えても弱る様子はない。その時弁慶が進み出て読経を始める。これによって知盛は一度は引き離されるものの、尚も船を狙う。刀で追い払い、法の力で調伏し、力を合わせて船を漕ぐうちに、その距離は次第に離れ、知盛の姿は引き潮に流されて見えなくなった。戦いの跡に残るのはただ白波ばかりであった。
詳しくはこちらへ ・装束 <九期生 S.T> ・全文掲載(現代語訳付き)<九期生 K.O> |
白拍子ってどんな人? 静御前といえば、白拍子として有名です。能楽「船弁慶」にも静が弁慶の勧めによって舞い、義経の船出を祝すシーンがあります。それでは白拍子とはどういう人だったのでしょうか?せっかく静を演じる機会にめぐまれたので、調べてみました。 現在、白拍子は傀儡女(くぐつめ。美しく今様の上手な遊女のような人々)から出てきたといわれています。しかし、昔の人々はそうは考えていなかったようです。白拍子の活躍していた鎌倉時代には、文学作品から二つの異なる説を見ることができます。それを上げてみましょう。 まず一つ目は『平家物語』です。『平家物語』には白拍子の起源として、鳥羽院の時代に島の千歳、和歌の前という二人が始めたと書かれています。この二人の舞は、水干に立烏帽子をつけ、白鞘巻(腰刀の一種)をさすという出で立ちから男舞と呼ばれていました。しかし後には烏帽子、刀を用いず、水干だけを身に着けて舞ったので、白拍子と呼ばれるようになったといいます。 もう一つは『徒然草』です。こちらは静御前を白拍子の始めとする説で、当時の人々にとっても「白拍子の静」という印象は強かったことがわかります。この作品では、まず藤原通憲(みちのり)が舞をする者の中から芸道熱心なものを選び、磯禅師に教えたとあります。この舞は、白い水干に鞘巻をさし、烏帽子をつけて行ったので、やはり男舞と呼ばれました。それを娘の静が継ぎ、これが白拍子の始めである、としています。 右の二作品にもあるように、男装して舞うというのは白拍子の大きな特徴のようです。『義経記』には静御前が鶴岡八幡宮で舞ったときの様子として、小袖の上に唐綾を重ね、白い袴をつけ、割菱の入った水干を着、背丈ほどの髪は頭の高い位置で結い、紅い扇を持っていたと書かれています。 その他の特徴としては、他の舞女とは違い「白拍子」と呼ばれる独特の拍子(あるいは舞?) を得意としたこと、一声をあげて『和漢朗詠集』などにある漢詩を謡うことがあります。「船弁慶」においてもこの例が見られ、静は「渡航の郵船は。風静まって出づ 波頭の託所は日晴れて見ゆ。」と一声をあげてから舞い始めます。(『和漢朗詠集』小野篁作。「渡口郵船風静定出、波頭謫所日晴看」。) もう一つ、先述の『徒然草』には白拍子について「仏神の本縁をうたふ」と書かれています。仏神の縁起や由来、そのありがたさを謡い、説いたのでしょう。 神泉苑には雨乞いのために白拍子を集めたという伝説があります。百人の白拍子を集め、百人目であった静御前がその舞によって見事雨を降らせた、という話です。これらを考えるとただの芸能者でない、宗教的な白拍子の一面がみえてくるような気がします。「船弁慶」で弁慶が静に出航前に舞を勧めるのにも、そういった理由があったのかもしれませんね。 ★参考文献 『女性芸能の源流 傀儡・曲舞・白拍子』脇田晴子 角川選書 二〇〇一年 『平家物語の女たち 大力・尼・白拍子』細川涼一 講談社現代新書 一九九八年
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