能楽『融』
◆あらすじ◆ |
東国のお坊さまが旅へ出てまだ見ぬ京の都へとやってきました。着いたのは六条河原院。そこで汐汲みを生業としているという老人に出会います。海のない京の町で汐汲みとはおかしな話ですがこここそは遠い昔、源融が名高い陸奥の塩釜の景色をそのままに移した所なのです。大阪から海水を毎日運び塩を焼く風情を楽しんでいたここならば汐汲む人がいるのももっともです。この塩釜を移した六条河原院のことはもちろんお坊さまも聞き及んでいました。この日はちょうど秋の最中、仲秋の名月。夜が更けて月に照らされた景色を見て老人とお坊さまは「僧は敲く月下の門」の漢詩を思い浮かべ心を通わせます。 お坊さまに尋ねられるままに東から南、西と老人は河原院から見える京の名所を教えます。そうこうするうちに月は高く昇り、潮を汲むべき時間がとうの昔にきていたことに老人は気付くのでした。時を惜しみ桶を担いで波間に入り、潮を汲む老人。その姿はいつしか汐曇に隠れて消えてしまいました。 不思議な思いでたたずむお坊さま。そこへ里の人がやって来ます。お坊さまは河原院の話をこの人からも聞き、そして先ほど不思議な老人とであったことを話します。すると、里の人はそれはまさしく融大臣の霊であろう、というのでした。 もう一度融大臣の霊に逢える事を期待して、お坊さまは河原院の跡で仮寝をします。すると、はたして融大臣が現れました。今度は在りし日の気高い貴公子の姿で。融大臣はその昔、この塩釜に舟を出して酒宴を楽しみ、月光を浴びて舞い遊んだことを思い出して舞い始めます。そして、夜明けが近づき月が西に入るとともに融大臣も月の都へと帰っていくのでした。 |
全文掲載(現代語訳付き)
左側が原文、右側が現代語訳です。
下に注釈がついています。
◆場面1・旅の僧登場◆
*1 源融公が京都の六条の河原の辺りにつくりました豪華なことこのうえない別荘です。六条京極のあたりにあったとも、また、敷地の北辺は五条通り、西は河原町通り、南は正面通り、東は鴨川という立地だったともいわれています。今の渉成園は河原院の一部だったという話も。まあようするに、‘六条河原院’というぐらいですから場所は鴨川に六条通が突き当たるあたりにどどんと広がっていた、と。そういうことですね。その付近に「塩竈町」「本塩竈町」という地名もありますし。融さんとはどういう人か、この河原院とはどんな邸宅だったのか、なんてなことはおいおい出てきます。 |
◆場面2・謎の老人登場◆
*1 「塩釜の浦」とは歌枕にもなっている陸奥の名勝です。宮城県塩釜市にあります。その塩釜の景色に憧れた融公は、その景色を六条河原院に作り上げたのです。すごいね。お金懸かっただろうね。ですからここで言っている「塩釜の浦」は京都の塩釜の浦のことを指しています。 |
◆場面3・旅の僧、老人に話し掛ける◆
*1 源融さん。822−895年。お父さんは嵯峨天皇です。おお、いいとこの子だ! ですけどね、この嵯峨天皇、ものすごく子どもが多くて融さんは第8王子だか第12王子だか第17王子だかで(いろいろ物の本によって違うので分かりませんけど、けど、17て!)、せっかく天皇の子に生れても天皇になれる望みは生まれた時からものすごく薄かったのです。源姓を賜って臣籍に下りました。いわゆる嵯峨源氏の始まりの人ですよ。融さんだけじゃないですけど。お兄さんである仁明天皇の養子になって参議・左大臣と出世したそうです。しかしなんだってお兄さんの養子になったんだろ。お兄ちゃんもお父さんに負けず劣らず子どもたくさんいるのに。左大臣となったことと、河原院に住んでいたことから「河原左大臣」と呼ばれていたそうです。とても風流な人でしてね。豪奢な遊びっぷりはかなり有名で、融さんちは当時の文化人の溜まり場、というと感じ悪いな、そうね、サロンみたいなものだったらしいです。融さんはいいとこの子なのでお金はいっぱい持っていて、それを粋に使ってみんなに慕われたのかしらん。光源氏のモデルだという噂もあります。ということは顔もよかったのか! たまりませんな。 *2 千賀とは、陸奥の塩釜の浦一帯のことをさす古語だそうです。 |
◆場面4・詩情あふれる景色に心を通わせる二人◆
*1 籬が島は陸奥の塩釜湾にある小さな島です。島には鳥居があります。曲木神社です。和歌によく詠み込まれる名所でした。そういう島まで再現していたんですね、すごいな。陸奥の籬が島は、今は「籬島」と呼ばれています。昔は海岸線から少し離れてぽちりと浮かんでいたのですが今は埋め立てによってずいぶん近くなり、橋で渡れるようになっています。 *2 ここがね、いろいろと難しいのです。音では「しもん」と読むのですが、さあそれに漢字を当てはめるとどうなるか、というところで色々と説があります。「柴門」「詩門」「四門」「侍門」などなど。「柴門」ならば、「簡素な柴作りの門を月が照らしている」となるだろうし、「四門」ならば河原院の東西南北に作られた門を月が……となるだろうし。ともかく、「僧は敲く月下の門」の門のように、月に照らしだされている門があるよ、ってことなのでしょうね。 *3 これまたよくわからないのです。謡本では「孤舟」となっていますが、もとは「こしう」とひらがなだったらしく、それに漢字をあてた一つの例、ということのようです。他には「古秋」「古詩」「古集」などの説があります。 *4 賈島さんは中国の詩人です。779-843年。(たぶん。)‘推敲’の逸話でおなじみの漢詩の作者です。賈島さんはぎりぎりと自分の脳味噌を絞るように苦しみながら詩句を練るタイプの人だったようで、その推敲の古事が生れたのも、詩の文字に迷い考え抜いている時の事でした。あまりに悩みぬいていたため周囲に注意を払っていなかった賈島さんは、とてもえらくて地位のある人の車にぼかんとぶつかってしまいました。とても失礼なことですので本来なら大目玉を喰らうところですが、その偉い人は「何をそんなに考え込んでいるのか」と尋ねてくれまして。そこで賈島さんが、詩の句をどっちにしたものか悩んでいる、というといっしょに考えてアドバイスまでしてくれました。「推す、か敲く、かなら敲く、の方がいいんじゃないだろうか」ここから、文章を練り直し研ぎ澄ます事を「推敲」というようになったのですね。さてその偉い人ですが、有名な詩人・韓愈さんだったそうです。 *5 賈島さんが悩みぬいていた詩はこれ。タイトルは「題李凝幽居」 閑居少鄰竝 草径入荒園 鳥宿池中樹 僧敲月下門 過橋分野色 移石動雲根 暫去還来此 幽期不負言 荒れ果てた庭の隠れ家のようなところを訪れるお坊さま。月に照らしだされた門をお坊さまはギギギと推すのがいいのか、それともトントンと敲くのがいいのか。むむむ。 |
◆場面5・塩釜の浦の話◆
*1 嵯峨天皇は在位809−823年。融さんのお父上です。判断力・統率力に優れた方だったそうですよ。それに加えて多芸多才で、空海・橘逸勢とともに「三筆」と言われるほど字が上手だったというのは有名な話ですね。嵯峨天皇は子沢山だったため融さんは天皇の子といえども天皇になる可能性が低かった、というのは先にお話しましたね。さてそのお子さんはなんと52人もおられたそうです。52人て! あ、奥さんも30人もおられたそうですからご心配なくって何の心配なんだか。その、52人ものお子さんのうち32人に「源」の姓を与えて臣籍に降下させたのです。融さんもその一人。 *2 難波津の正確な位置は判明していませんが難波宮跡のそばではなかったかと考えられています。となると大槻能楽堂の近所ですね。難波に都があったころの海岸線は今よりもずっと東にあったそうで、今の地形で考えると意外と内陸のほうになります。 *3 塩を焼くのはもちろん塩を得るためですが、それを「いい風情だ」といって焼かせていたのですね、融さんは。ここで出来た塩はどうなったのかしらんなんて考えてしまうのは貧乏人のさがですな。 *4 荒れ果てた六条河原院は有名でね。融さんが亡くなった直後は子どもに受け継がれ、その子が宇多上皇にゆずり、上皇が奥さんを住まわせていたりもしたのですがそこへ融さんの幽霊が「京極御息所(奥さんです)をよこせ」と化けて出たなんていう話もありますし、その後は、荒れ放題で鬼の棲家となり、たまたまそこで夜を明かした旅人が得体の知れぬ鬼に喰われたとか何だかんだという話が伝わっております。こわやこわや。あんなに贅を凝らした邸宅だったのに……という、落差が人の心をひきつけたのでしょうか。それとも荒れて鬼が棲むだけの要因があると人々は考えていたのかしら。宇多上皇のところに化けて出たというのは理由があると思われます。というのもね、融さんは天皇になりたくて、一度チャンスがあったときに「私なんかはどうだろう」と発言してるのです。(『大鏡』など)けれど「いったん臣籍に下った人が天皇になるなんてありえない」と却下されてしまいました。それが。この宇多さんは臣籍に下っていたにもかかわらず天皇になれた人なのですよ。それ、頭くるじゃありませんか、融さんにしてみたら! しかも、その宇多さんを推挙したのは融さんに「ありえない」といった人、藤原基経その人だというんですから全く持って腹に据えかねますわよ。そりゃ、化けて出たくもなるってもんです。 *5 「君まさで煙絶えにし塩釜のうら淋しくも見え渡るかな」 古今和歌集。巻16に載ってます。 *6 紀貫之さん。*5の歌の作者です。872-945年。895年に融さんが75歳でなくなったときでもやっと23歳ですか。一緒に遊ぶ年齢ではないでしょうけど、お互いのこと知ってたでしょうね、当然。文化人同士ですから。 *7 返らぬ昔が恋しい……これね、ただ、面白おかしく河原院で遊んでいたころの事が懐かしいのじゃないと思うんですよね。ある、手の届かぬ方に恋をしていた、という説もありますけれど。(先ほど出た京極御息所です。けれどちょっと無理があるよね。融さんが亡くなったのは895年、京極御息所こと藤原褒子さんが宇多さんのとこにお嫁入りしたのは919年ごろだそうですから融さんは彼女の事知らなかったんじゃないかな、生前には。もちろん、死んだ後に見かけて惚れたということもありえない事ではないですけどね、たいそう美しい方だったそうですから。)なんといいますかね、融さんは淋しかったんじゃないのかしら。天皇になれなかったことが。この融のお話を見ていても、大好きでたまらなかった河原院にまた来れた、やっぱここはサイコーだぜ、みんなありがとう! って雰囲気じゃないと思いません? 優雅に遊ぶにしても、何か心に押し隠しているような、というか、空元気を出しているような気がするのです。そこで、融さんが泣いて渇仰する「返らぬ昔」というのは、まだ天皇になれる望みのあった昔、といいますかいろいろな「可能性」があったころ、なのではないかなと考えてみたり。よいお能で観ると、最後に帰っていくときにぎゅっと心をつかまれるのですが他の、満足して舞って帰っていったような子なら「よかったね、バイバイ」と思いますし成仏できた子にもそう思うのですが、融さんの場合はちょっと違うのです。追っかけていきたくなるような…そう、私にはもう少し何かしてあげられることはなかったかしら、というような悔悟の念にも似た思いがするのですね。後場で出てきたときに「忘れてたのにまた来た」っていうでしょう? あれも不思議なセリフです。(他にも『江口』『雲林院』『関寺小町』などにも出てくる言葉ですが。)どうして忘れてたのかしら。忘れようとしてるんじゃないのかしら。井筒ちゃんや通小町ちゃんはずっとうろうろしてそうですけど(そしてその度ごとに出会ったお坊さんそれぞれとああいうお話を繰り広げているような気さえします。)融さんはほんとに、この日、死後初めて来たような感じがするのです。そして本当に、もうこれっきり。本当に忘れきるために、もう一度だけ思い出して存分に遊んだというか、ねえ。ああ、わけ分かんなくなってきましたけど。そうだ。諦観。これが漂ってるんだわ、融さんには。 *8 浦千鳥=浜千鳥=磯千鳥=川千鳥ってことのようです。水辺に群れいる小さな鳥たち。そのなかでも、ここは「うら淋しい」とかけられて、より寂しさをつのらせることのできる「浦千鳥」が使われているのでしょう。ちりちり、と泣くそうです。切ない鳴き声ですね。 |
◆場面6・僧に京都の名所を教える老人◆
*1 音羽山は京都に二つありますがここでいう山は、河原院のすぐ東にある清水寺背後の山、清水山だと思われます。清水山は音羽山とも呼ばれています。京都と滋賀の県境にあるほうの山だとありますが、そちらは河原院からは見えないんじゃないかと。この清水山=音羽山に遮られて。それに、このあとで言われるように「峯続き」なのは間違いなく清水山のほうですしね。 *2 「音羽山音に聞きつつ逢坂の関の此方に年を経るかな」在原元方さんの歌です。古今和歌集に採られています。音羽山のように音に、即ち噂にあなたのことは聞きますけれども、逢坂=逢う坂を越えれば近江=逢う身とは名ばかりで、あなたに逢えずにこうして関のこちら側で徒に日々を過ごしております……という切ない歌でございます。そんな歌詠んでる暇があったら逢いに行けー! とはいってもね、そうもいかないから辛いんですよね、うんうん。 *3 この逢坂山を知らない人はいないのではないかしら。ある程度古典好きの方なら。そら、百人一首でも詠まれてるじゃないですか。「知るも知らぬも逢坂の関」とか「夜に逢坂の関はゆるさじ」とか。京から近江へと出るときに越える山が逢坂山で、そこに昔は関所が拵えてありました。京の東の玄関口ですから人々が足繁く往来いたしました。「人と人とが逢う坂」。いい得て妙! この舞台にこの名前、物語がうまれないわけがありません。 *4 「峯続き」といわれているように、京の都の東側には山並がつらつらと北から南へ伸びています。これがいわゆる東山三十六峰ですね。ひときわ高い比叡山から始まって稲荷山まで山並が続いているのです。三十六峰の数え方には色々と説があり、というかそもそも36という数字は語呂がよいからつけられたようなものらしいのですが、ある数え方を用いますと比叡山を第一峰としまして、清水山(音羽山)は第二十九峰とされています。 *5 「歌の中山清閑寺」。よくセットで聞く名前ですが、なぜ「歌の中山」というかというと、この清閑寺のお坊さんが修行中の身の上だというのにきれいな女の人を見て心動かされ、お友達になりたいと思って声をかけたら「見るにだに迷う心のはかなくてまことの道をいかでしるべき」と返されてしまいました、その女性は実は観音様の化身だったのです、というお話があるからだそうです。このあたりの山を清閑寺山といい、先ほど言いました東山三十六峰の第三十峰に数えられています。 *6 大人気の熊野神社を京の都に勧請したのがここ、今熊野です。今熊野山は東山三十六峰の第三十二峰です。 *7 「我が袖にまだき時雨の降りぬるは君が心に秋や来ぬらん」古今和歌集の歌です。。時雨といえば秋に降るもので、この時雨によって紅葉は紅に染め上げられていくのです。けれど、まだ秋ではないのに私の袖にはもう時雨が降っています。(涙に濡れています、ということ。)それは、もう秋が来たから……あなたの心に飽きが来てしまったからなのですね、という哀しい歌の一節です。 *8 この稲荷山が東山三十六峰の南の端にあたります。つらつらと続いた山並もここでひとまずおしまいです。稲荷山にはその名から推察されるとおりお稲荷さんがあります。そのお稲荷さんこそ、伏見稲荷大社でございます。行ったことのない方も、毎年初詣客の多さで新聞等に載りますから(いつも五位以内に入っていますよね)ご存じなのではありますまいか。 *9 平安京よりも古くから崇敬されている歴史の古い藤森神社があります。 *10 「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」千載和歌集掲載の、藤原俊成の歌です。この和歌をお互いに知っていてですね、それを引き合いに出して会話をするなんて、実に知的なやりとりではありませんか。私は会話に加われそうにありません。しょぼん。 *11 稲荷山の南の裾のあたり一帯が深草で、稲荷山の南側を深草山とも言ったそうです。お能で深草といえば深草少将でありますな。ついでながら小野はこの深草の西にあります。 *12 木幡山は伏見山のことのようです。秀吉が伏見城を建てたあの山です。伏見桃山城キャッスルランドは残念なことにつぶれてしまいましたねー。今、明治天皇のお墓があるところが昔のお城の跡地です。木幡山とはいっても今の木幡よりずいぶん北にある気がします。昔は「木幡」の概念が広かったのでしょうか。千葉にあっても東京ディズニーランドというが如し、ですかね。 *13 竹田は京の都の真南に当たります。都中央をずっと南下して奈良方面へ行く時にはいわゆる「竹田街道」を通っていきました。藤森の少し西あたりです。 *14 淀といえば競馬! とお思いになる方は多いのでしょうが私はこの方面には疎いのでそのことについては語りません・語れません。ここは、京を流れる三本の川、桂川・鴨川・宇治川が合流するところです。ここにお城をもらったから淀殿と呼ばれたお茶々さんは有名ですね。彼女は滋賀県出身ですからね。 *15 鳥羽伏見の戦い、といえば幕末好きの方の琴線に触れるのではないでしょうか。このあたりは鳥羽離宮があったりなんかしていい雰囲気の水郷だったんですよ。とはいっても鳥羽離宮が作られたのは1086年からなので融さんは見てないのですが竹田より少し西にあり、昔はこのあたりから舟に乗って川を下り、西方面へ行ったんですって。港だったのね。……と嫌になるほど細かく注をつけましてその割には中味がなくて申し訳ありませんがこうしてみてみますと、河原院の真東から山並を伝って南へ、山が途切れてから西へ、と視線を移していることがよく分かります。これだけ当時は見えていたってことですよね。今じゃ、色々なものに遮られてとても無理です。京都駅の駅ビルの屋上からならば、今もこんな具合に見えるでしょうね。と文字だけで説明してもあれですので、絵を描いてみました、ご覧あれ、って絵といってもただ位置関係を見て欲しいだけのものですから期待せずにこちらをクリックしてね。 |
◆場面7・汐を汲みつつ姿を消す老人◆
*1 「眺めやるそなたの雲も見えぬまで空さへ暮るる頃のわびしさ」という歌が『源氏物語』の「浮舟」に出てきます。匂宮が浮舟さんのことを思って詠み送った歌です。 *2 「京都〜大原三千院♪」の方の大原でなくてですね(といってこの歌を今時の若い子は知っているのでしょうか)、いわゆる大原野、の方でございます。京都の西側、嵐山や嵯峨野の南に開けているところ。その名もズバリ大原野神社がありますのでそこを目印にどうぞ。 *3 小塩山は大原野の西側にある山です。紅葉や桜の美しいところで昔から人気のあったお山です。頂上には第53代の天皇・淳和さんのお墓があります。嵯峨天皇の弟で、融さんには叔父さんにあたります。 *4 「大原や小塩の山も今日こそは神代のこともおもひ出づらめ」古今和歌集、在原業平さんの歌です。これは清和天皇の奥さんで陽成天皇のお母さまである藤原高子さんがまだお若いとき(皇太子夫人、という立場だった頃)に大原へ行かれた時のことを詠んだものです。なんでも、当時は藤原氏一族では女の子が生まれると「天皇の奥さんになれますように」とここの大原野神社でお祈りし、それが叶うと盛大な行列でもってお礼参りをすることが通例となっていたそうです。高子さんもめでたく皇太子夫人(当時は東宮の御息所といったのでしょう)になれたのでお礼に訪れたのでしょうか。たいそうキラビヤカな一行が小塩山を訪れたのでしょうね、その様を「小塩山も、このような盛儀を見て神代の昔の豪華な様を思い出したんじゃないかしら」と表現したのです。神代の昔とは、大原野神社の第三殿の祭神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)が高子さんのご先祖にあたるのでその活躍なさったであろうときのことをさしていってるのだそうです。 *5 松尾は京都の西にある名所です。松尾大社はお酒の神様として有名です。狂言の「福の神」でもちゃんと敬意を払われてますよね。おいしいお水が湧いています。行くときは水筒忘れないでね。 *6 嵐山はご説明いたすまでもありますまい。有名ですもの。山の名前だけでなく、あたり一帯の地名でもあります。 *7 水を汲む桶の担桶(たご)と田子の浦をかけています。田子の浦といえば「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」と百人一首にもあるように(万葉集では「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」)、富士山のふもとの地名です。そこから「東からげ」につながると。そういうことなのだそうです。謡曲の詩章はまさに連想ゲームですな。 |
◆場面8・間狂言その1◆
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◆場面9・間狂言その2◆
*1 輦車とは、屋形に車を付けて、手で引く乗り物です。内裏の中は普通は歩くものですが、東宮・親王・摂政関白・女御などごく一部の特別な人だけがこれに乗って入ることを許されました。融さんもその仲間入りをした、ということです。一般人には中へ入ることすら思いもよらない内裏を車に乗って移動していいんですからね。すごいことですね。 *2 三位以上の人、および四位の参議。ようするに公卿のことです。公卿についてはもう少し後で詳しく。ね。 *3 在原業平といえば優れた歌詠みにして平安時代きっての色男。825−880年。融さんとは3つ違いです。融さんと仲がよかったと分かる逸話が『伊勢物語』に出てきます。河原院にも遊びに来てたそうですしね。 |
◆場面10・間狂言その3◆
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◆場面11・河原院に寝て融の再来を待つ僧◆
*1 京都の真ん中ですがここは塩釜の浦なので磯、といっているのです。はじめに「何で汐汲みなんですか」と言っていたことを思えばお坊さまにはここはもうすっかり海辺になっているのですね。 *2 お坊さまの衣のことを苔衣というようです。粗末なもの、という意味からでしょうか。 |
◆場面12・在りし日の融大臣登場◆
*1 まへつきみ→もうちきみ と、音が変化したのです。その「前つ君」とは天皇に伺候できる位の人、すなわち公卿をさす言葉です。公卿とは太政大臣・左大臣・右大臣の「公」と参議・大納言・中納言・三位以上の「卿」のことで、融さんは参議と左大臣を経験しておりますから紛れもなく前つ君ですね。この前つ君というのは天皇が変わるとまた新たに決められるものなのでその時々で人数に差はあるのですがだいたい20名ぐらいだったとか。エリート中のエリートですわ。この人たちが国を動かしていたんです、当時は。ついでに、太政大臣は名誉職のようなものだったので実質のbPは左大臣だったそうです。おお。 *2 月の都の月宮殿には白衣15人、黒衣15人の合わせて30人の天人がいて、彼女たちは毎日舞っています。全員一緒に舞うことはなく、一日に15人ずつと決まっています。また、そのメンバーにも決まりがあり、初めの日は黒15人で舞います。翌日は黒14人と白1人、その翌日は黒13人+白2人、……というように順に黒衣が減り、白衣が増えていきます。白衣の天人15人で舞った翌日は、白14人+黒1人、と今度は白が減って黒が増えます。それがすなわち月の満ち欠けとなっているのです。満月の夜に舞っているのはみんな白衣の天人なのですね。 *3 中国の伝説によれば月には高さ五百丈、すなわち1500メートルほどの桂の木が生えているのだそうです。桂、といっても日本の桂の木とは違い、伝説上の木なのだとか。 *4 比叡山と如意ヶ岳の間から流れ出る白川は、山裾を通って南へ下り、三条あたりで西へ折れて鴨川と合流しています。川も有名ですが、地名としても有名ですよね。そして、奥州の白河の関はその名の通りすぐ近くを白河が流れています。塩釜は宮城県ですが白河は福島県にあります。 *5 曲水の宴という風流な遊びがありまして。お庭にゆるゆると曲がった溝を作りそこへ水を引いてきまして、そのポイントポイントに人々が座るわけです。そこへ、上からお酒の注がれた盃が流されてくるのです。それが自分のところへくるまでに即興で和歌を詠み、詠んだ後にその盃を取り上げてお酒を飲む、という中国から伝わった遊びです。水面に映るまるい月をその盃とみているのですね。しかし、掬うからには和歌を詠んだのでしょうか。ま、融さんなら造作ないことでしょう。 |
◆場面13・融大臣、月を楽しみ、月を謡い、月に帰る◆
*1 黛とは眉墨です。眉かき用のお化粧用のことも言いますし、書いた眉そのもののことも言います。山の形を眉の形になぞらえるのは決まりごとのようなもので、黛といえば遠くに見える山のことをさしてもいます。 *2・3 月が降りてこないのはあたりまえだけど水は天に昇ってるじゃーん、ということではなくてですね。月もその姿を水に映してはいるけれど降りてこない、水も、水蒸気になっていったん天に昇るかに見えるがまた雨となって戻ってくるのだから昇りきったままにはならない、ということです。これは本来は仏教の教えに用いられていた言葉です。そちらでは「月は降りず水は昇らない」の後に続きがあります。月は地に降りないし水が天に昇ることもない。けれど、月は高く昇るとどの水たまりにもその姿を映します。そのように、仏も誰しもの心に映し出されるのですよ、遠く離れていてもお互いの心は通いあえるのですよ、ということなのですって。ありがとう、仏さま。 |