能楽『融』


◆あらすじ◆
  東国のお坊さまが旅へ出てまだ見ぬ京の都へとやってきました。着いたのは六条河原院。そこで汐汲みを生業としているという老人に出会います。海のない京の町で汐汲みとはおかしな話ですがこここそは遠い昔、源融が名高い陸奥の塩釜の景色をそのままに移した所なのです。大阪から海水を毎日運び塩を焼く風情を楽しんでいたここならば汐汲む人がいるのももっともです。この塩釜を移した六条河原院のことはもちろんお坊さまも聞き及んでいました。この日はちょうど秋の最中、仲秋の名月。夜が更けて月に照らされた景色を見て老人とお坊さまは「僧は敲く月下の門」の漢詩を思い浮かべ心を通わせます。
  お坊さまに尋ねられるままに東から南、西と老人は河原院から見える京の名所を教えます。そうこうするうちに月は高く昇り、潮を汲むべき時間がとうの昔にきていたことに老人は気付くのでした。時を惜しみ桶を担いで波間に入り、潮を汲む老人。その姿はいつしか汐曇に隠れて消えてしまいました。
  不思議な思いでたたずむお坊さま。そこへ里の人がやって来ます。お坊さまは河原院の話をこの人からも聞き、そして先ほど不思議な老人とであったことを話します。すると、里の人はそれはまさしく融大臣の霊であろう、というのでした。
  もう一度融大臣の霊に逢える事を期待して、お坊さまは河原院の跡で仮寝をします。すると、はたして融大臣が現れました。今度は在りし日の気高い貴公子の姿で。融大臣はその昔、この塩釜に舟を出して酒宴を楽しみ、月光を浴びて舞い遊んだことを思い出して舞い始めます。そして、夜明けが近づき月が西に入るとともに融大臣も月の都へと帰っていくのでした。


全文掲載(現代語訳付き)

左側が原文、右側が現代語訳です。
下に注釈がついています。

◆場面1・旅の僧登場◆
ワキ 「これハ東國方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候程に。この度思ひ立ち都に上り候 旅僧 「私は東国から参りました僧です。まだ京の都を見たことがありませんので、この程思い立ちまして都へ上るところです。
ワキ 「思ひ立つ心ぞしるべ雲を分け。舟路を渡り山を越え。千里も同じ一足に千里も同じ一足に 旅僧 「思い立った心に導かれいざ旅立とう。湧き立つ雲を掻き分けて。舟で海越え山をも越えて。千里もの遠き道のりもすべてはこの一歩からなるのだ、その歩みを重ねて行こう。
ワキ 「夕べを重ね朝毎の。夕べを重ね朝毎乃宿の名殘も重なりて。都に早く。着きにけり都に早く着きにけり 旅僧 「宿りの回数をかさね、朝に旅立つごとに宿に名残を感じる。そんな日々を重ねるうち、思いのほかに早く、都へと到着した。
ワキ 「急ぎ候程に。これハはや都に着きて候。この邊をば六條河原の院とやらん申し候。暫く休らひ一見せばやと思ひ候 旅僧 「道中急ぎましたので、もう都、京へ到着いたしました。このあたりは六条河原院*1というところだそうです。休みがてら、しばらく見物していきましょう。


*1 源融公が京都の六条の河原の辺りにつくりました豪華なことこのうえない別荘です。六条京極のあたりにあったとも、また、敷地の北辺は五条通り、西は河原町通り、南は正面通り、東は鴨川という立地だったともいわれています。今の渉成園は河原院の一部だったという話も。まあようするに、‘六条河原院’というぐらいですから場所は鴨川に六条通が突き当たるあたりにどどんと広がっていた、と。そういうことですね。その付近に「塩竈町」「本塩竈町」という地名もありますし。融さんとはどういう人か、この河原院とはどんな邸宅だったのか、なんてなことはおいおい出てきます。


◆場面2・謎の老人登場◆
シテ 「月もはや。出汐になりて塩竃の。浦さび渡る。氣色かな 老人 「おお、早くも月が……。月の出の前に満ち始める出汐の頃合だ。月の出に引かれて汐の満ちてきたここは、塩釜の浦*1。うら寂しい風情であることよ。
シテ 「陸奥ハ何處ハあれど塩竃の。うらみて渡る老が身の。寄辺もいさや定めなき。心も澄める水乃面に。照る月なみを數ふれば。今宵ぞ秋の最中なる。げにや移せば塩竃乃。月も都の。最中かな 老人 「陸奥と一口に言っても名所は数あるがやはり塩釜をおいてはなかろう。しかし、その浦には世の渡り難さを恨みつつ過ごすこの老いの身を寄せるべきところとて見つからぬ。見つめていると心まで澄んでくる水には月も顔を映すが、その齢を数うるに今宵は秋のちょうど真ん中、仲秋の名月であろう。秋の真ん中の塩釜の月を、都の真ん中で見るという……ここは塩釜の浦なのに都に移したおかげでその趣向が楽しめるというわけだ。
シテ 「秋ハ半ば身ハ既に。老い重なりて諸白髪 老人 「秋はちょうど半ばに差し掛かった。しかしこの身は秋をも過ぎ、老いを重ねていまやすっかり白髪頭だ。
シテ 「雪とのみ。積りぞ来ぬる年月の。積りぞ来ぬる年月の。春を迎へ秋を添へ。しぐるゝ松の。風までも我が身の上と汲みて知る。汐馴衣袖寒き。浦曲の秋乃。夕べかな浦曲の秋乃夕べかな 老人 「冬を迎え、雪が年月とともに降り積もったのだろうよ。幾たびもの春と秋を数えるうちに、時雨の降るような音をたてて松を吹きすぎる風音の侘しさがしっくりくる年になったのだな。そんな松風の音を聞くにつけ、年経り身が古りたことを己が身の上にしみじみと感ぜられるようになった。ああ、汐に濡れた衣が肌寒い。秋のうらさびしい浦の夕べは老いた身にはこたえるよ。


*1 「塩釜の浦」とは歌枕にもなっている陸奥の名勝です。宮城県塩釜市にあります。その塩釜の景色に憧れた融公は、その景色を六条河原院に作り上げたのです。すごいね。お金懸かっただろうね。ですからここで言っている「塩釜の浦」は京都の塩釜の浦のことを指しています。


◆場面3・旅の僧、老人に話し掛ける◆
ワキ 「いかにこれなる尉殿。御身ハこの邊の人か 旅僧 「そこのご老人。あなたはこのあたりにお住まいの方ですか。
シテ 「さん候この所乃汐汲にて候 老人 「ええ、左様でございます。地元の汐汲みでございますよ。
ワキ 「不思議や此處ハ海辺にてもなきに。汐汲とハ誤りたるか尉殿 旅僧 「おや、おかしなことを仰る。ここは海辺でもありませんのに汐汲み、だとはお間違えでしょう。
シテ 「あら何ともなや。さて此處をば何處と知ろし召されて候ぞ 老人 「いやはや。何を仰いますやら。さてお坊さまはここをどこだとお思いで?
ワキ 「この所をば六條河原の院とこそ承りて候へ 旅僧 「ここは六条河原院だと聞いておりますが。
シテ 「河原の院こそ塩竃乃浦候よ。融の大臣陸奥乃千賀の塩竃を。都の内に移されたる海辺なれば。 老人 「河原院といえば塩釜の浦でございましょう。融大臣*1が陸奥の千賀*2の塩釜をこの都に移されたところですよ。その海辺なのですから
シテ 「名に流れたる河原の院乃。河水をも汲め池水をも汲め。此處塩竃の浦人なれば。汐汲となど思さぬぞや 老人 「世にも名高き風聞の流れる河原院なのですから、河の水を汲もうが池の水を汲もうが、ここは他でもない塩釜の浦。そして私はその浦人なのです。これでも汐汲みでないと仰いますかな?


*1 源融さん。822−895年。お父さんは嵯峨天皇です。おお、いいとこの子だ! ですけどね、この嵯峨天皇、ものすごく子どもが多くて融さんは第8王子だか第12王子だか第17王子だかで(いろいろ物の本によって違うので分かりませんけど、けど、17て!)、せっかく天皇の子に生れても天皇になれる望みは生まれた時からものすごく薄かったのです。源姓を賜って臣籍に下りました。いわゆる嵯峨源氏の始まりの人ですよ。融さんだけじゃないですけど。お兄さんである仁明天皇の養子になって参議・左大臣と出世したそうです。しかしなんだってお兄さんの養子になったんだろ。お兄ちゃんもお父さんに負けず劣らず子どもたくさんいるのに。左大臣となったことと、河原院に住んでいたことから「河原左大臣」と呼ばれていたそうです。とても風流な人でしてね。豪奢な遊びっぷりはかなり有名で、融さんちは当時の文化人の溜まり場、というと感じ悪いな、そうね、サロンみたいなものだったらしいです。融さんはいいとこの子なのでお金はいっぱい持っていて、それを粋に使ってみんなに慕われたのかしらん。光源氏のモデルだという噂もあります。ということは顔もよかったのか! たまりませんな。
*2 千賀とは、陸奥の塩釜の浦一帯のことをさす古語だそうです。


◆場面4・詩情あふれる景色に心を通わせる二人◆
ワキ 「げにげに陸奥の千賀乃塩竃を。都の内に移されたる事承り及びて候。さてハあれなるハ籬が島候か 旅僧 「ええええ、陸奥の千賀の塩釜を都の内に移しなさった話、私も聞き及んでおります。それでは、あれは籬が島*1にあたるわけですか。
シテ 「さん候あれこそ籬が島候よ。融の大臣常ハ御舟を寄せられ。御酒宴の遊舞さまざまなりし所ぞかし。や。月こそ出でゝ候へ 老人 「そうです、あれが籬が島でございます。いつも融大臣が舟を漕ぎ寄せなさって、酒宴の遊舞を楽しまれておりましたところですよ。や。月が、出て参りましたぞ。
ワキ 「げにげに月の出でゝ候ぞや。あの籬が島の森乃梢に。鳥の宿し囀りて。しもんに映る月影までも。 旅僧 「おお、本当だ、月が出てきましたね。 あの籬が島の森の梢で鳥が囀っていますね。その声を聞き、“しもん*2”を照らす月の光を見ておりますと……
ワキ 「弧舟に歸る身の上かと。思ひ出でられて候 旅僧 「私自身が弧舟*3に帰る身の上となったような……あれはこういう情景を歌ったものだったろうかと思い出されましたよ。
シテ 「何と只今の面前乃景色が。お僧の御身に知らるゝとハ。若しも賈島が詞やらん。 老人 「何ですと、この、今目前に広がる景色をみてご自分のことのように思われる、と仰いますのは、それはもしかして賈島*4の詠んだ詞のことではありますまいか。
シテ 「鳥ハ宿す池中の樹 老人 「鳥は宿す池中の樹*5、でしょう?
ワキ 「僧ハ敲く月下の門 旅僧 「そうです、僧は敲く月下の門、ですね。
シテ 「推すも 老人 「推す、にしようか。
ワキ 「敲くも 旅僧 「敲く、がいいだろうか。
シテ 「古人の心 老人 「その迷いは古人・賈島の心のうちでのことですが
シテ
ワキ
「今目前の秋暮にあり 老人
旅僧
「そう迷わせる情景が今、まさに目の前にある秋の暮れの景色の中にありますよね。
「げにや古も月にハ千賀の塩竃の。月にハ千賀の塩竃の。浦曲の秋も半ばにて。松風も立つなりや霧の籬の島隱れ。いざ我も立ち渡り。昔の跡を陸奥の千賀の浦曲を眺めんや千賀乃浦曲を眺めん 地謡 「本当に、遠い昔……賈島の昔も融公の昔のこともその時と変わらぬ月を見ればそれほど遠くなく近くに思われてくる千賀の塩釜の景色。この浦の秋半ばの景色。松風の音がして立ち込める霧に籬が島が見え隠れする。さあ、立ち出でて昔の跡を見よう、陸奥の千賀の浦曲を眺めよう。


*1 籬が島は陸奥の塩釜湾にある小さな島です。島には鳥居があります。曲木神社です。和歌によく詠み込まれる名所でした。そういう島まで再現していたんですね、すごいな。陸奥の籬が島は、今は「籬島」と呼ばれています。昔は海岸線から少し離れてぽちりと浮かんでいたのですが今は埋め立てによってずいぶん近くなり、橋で渡れるようになっています。
*2 ここがね、いろいろと難しいのです。音では「しもん」と読むのですが、さあそれに漢字を当てはめるとどうなるか、というところで色々と説があります。「柴門」「詩門」「四門」「侍門」などなど。「柴門」ならば、「簡素な柴作りの門を月が照らしている」となるだろうし、「四門」ならば河原院の東西南北に作られた門を月が……となるだろうし。ともかく、「僧は敲く月下の門」の門のように、月に照らしだされている門があるよ、ってことなのでしょうね。
*3 これまたよくわからないのです。謡本では「孤舟」となっていますが、もとは「こしう」とひらがなだったらしく、それに漢字をあてた一つの例、ということのようです。他には「古秋」「古詩」「古集」などの説があります。
*4 賈島さんは中国の詩人です。779-843年。(たぶん。)‘推敲’の逸話でおなじみの漢詩の作者です。賈島さんはぎりぎりと自分の脳味噌を絞るように苦しみながら詩句を練るタイプの人だったようで、その推敲の古事が生れたのも、詩の文字に迷い考え抜いている時の事でした。あまりに悩みぬいていたため周囲に注意を払っていなかった賈島さんは、とてもえらくて地位のある人の車にぼかんとぶつかってしまいました。とても失礼なことですので本来なら大目玉を喰らうところですが、その偉い人は「何をそんなに考え込んでいるのか」と尋ねてくれまして。そこで賈島さんが、詩の句をどっちにしたものか悩んでいる、というといっしょに考えてアドバイスまでしてくれました。「推す、か敲く、かなら敲く、の方がいいんじゃないだろうか」ここから、文章を練り直し研ぎ澄ます事を「推敲」というようになったのですね。さてその偉い人ですが、有名な詩人・韓愈さんだったそうです。
*5 賈島さんが悩みぬいていた詩はこれ。タイトルは「題李凝幽居」
閑居少鄰竝 草径入荒園 鳥宿池中樹 僧敲月下門 過橋分野色 移石動雲根 暫去還来此 幽期不負言
荒れ果てた庭の隠れ家のようなところを訪れるお坊さま。月に照らしだされた門をお坊さまはギギギと推すのがいいのか、それともトントンと敲くのがいいのか。むむむ。 


◆場面5・塩釜の浦の話◆
ワキ 「塩竃の浦を都の内に移されたる謂はれ御物語り候へ 旅僧 「塩釜の浦が都の内に移されたことについてのお話を聞かせてくださいませんか。
シテ 「嵯峨乃天皇の御宇に。融の大臣陸奥の千賀の塩竃乃眺望を聞し召し及ばせ給ひ。この所に塩竃を移し。あの難波の御津の浦よりも。日毎に潮を汲ませ。此處にて塩を焼かせつゝ。一生御遊の便とし給ふ。然れどもその後ハ相續して翫ぶ人もなければ。浦ハそのまゝ干汐となつて。 老人 「あれは嵯峨天皇*1の御代の頃のことでしたそうです。融大臣は陸奥の千賀の塩釜の眺望がたいそう素晴らしいことをお聞きになり、ここへ塩釜の景色をそっくりに造らせなさいました。そして、あの難波の御津の浦*2で汲ませた海水を毎日ここまで運ばせ、塩を焼いて*3おりました。そうして生涯ここで風雅の遊びをなさったのです。しかし、大臣亡き後はここを受け継いで遊ぶ人もありませんでした*4ので浦はすっかり干上がり干汐となってしまいましてな。
シテ 「池辺に淀む溜り水ハ。雨の残りの古き江に。落葉散り浮く松蔭乃。月だに澄まで秋風の。音のみ殘るばかりなり。されば歌にも。君まさで煙絶えにし塩竃の。うら淋しくも見え渡るかなと。貫之も詠めて候 老人 「池辺に淀んでいる溜まり水、あれは海水ではありません。雨が溜まっているだけなのです。その古い江にもすっかり落ち葉が散りつもり、水面は松影を通ってさしてくる月光を写すこともありません。澄まぬがゆえに月の住まぬ水なのです。あの頃と変わらぬものといえば松葉をざわめかせる秋風の音だけ。歌にも詠まれておりますね、
 君まさで煙絶えにし塩釜の
  うら淋しくも見え渡るかな
*5 
あなたが居られなくなって塩釜の煙は絶えてしまった。このうら淋しい塩釜の景色、これはまさしくあなたが居られくなった私たちの心の淋しさそのものだ。
と。貫之様*6もこのような寂びれた風景を眺めていたのでしょうな。
「げにや眺むれば。月のみ満てる塩竃の。うら淋しくも荒れ果つる後の世までもしほじみて。老乃波も返るやらん。あら昔戀しや 地謡 「このように眺めていても、月だけは昔と変わらず満ちるが塩釜の潮が満ちることはなくなってしまった。うら淋しく荒れ果ててはいるが、染み込んだ潮気は今も尚感じられる。汐を汲むたびごとに私にも潮気が染み込んでいる。これは老いの波の寄せ来たあかし、私のうちにだけ波が、老いの波が返ってきて満ちてしまったのだ。年月は返らないというのに。ああ、返らぬ昔が恋しい*7……
「戀しや戀しやと。慕へども歎けども。かひも渚の浦千鳥音をのみ。鳴くばかりなり音をのみ。鳴くばかりなり 地謡 「恋しい、恋しい、と慕おうとも嘆こうとも時は返りはしない。慕い嘆く甲斐のない渚に浦千鳥*8の鳴く声が響き渡る。響くのは浦千鳥の声だけ……


*1 嵯峨天皇は在位809−823年。融さんのお父上です。判断力・統率力に優れた方だったそうですよ。それに加えて多芸多才で、空海・橘逸勢とともに「三筆」と言われるほど字が上手だったというのは有名な話ですね。嵯峨天皇は子沢山だったため融さんは天皇の子といえども天皇になる可能性が低かった、というのは先にお話しましたね。さてそのお子さんはなんと52人もおられたそうです。52人て! あ、奥さんも30人もおられたそうですからご心配なくって何の心配なんだか。その、52人ものお子さんのうち32人に「源」の姓を与えて臣籍に降下させたのです。融さんもその一人。
*2 難波津の正確な位置は判明していませんが難波宮跡のそばではなかったかと考えられています。となると大槻能楽堂の近所ですね。難波に都があったころの海岸線は今よりもずっと東にあったそうで、今の地形で考えると意外と内陸のほうになります。
*3 塩を焼くのはもちろん塩を得るためですが、それを「いい風情だ」といって焼かせていたのですね、融さんは。ここで出来た塩はどうなったのかしらんなんて考えてしまうのは貧乏人のさがですな。
*4 荒れ果てた六条河原院は有名でね。融さんが亡くなった直後は子どもに受け継がれ、その子が宇多上皇にゆずり、上皇が奥さんを住まわせていたりもしたのですがそこへ融さんの幽霊が「京極御息所(奥さんです)をよこせ」と化けて出たなんていう話もありますし、その後は、荒れ放題で鬼の棲家となり、たまたまそこで夜を明かした旅人が得体の知れぬ鬼に喰われたとか何だかんだという話が伝わっております。こわやこわや。あんなに贅を凝らした邸宅だったのに……という、落差が人の心をひきつけたのでしょうか。それとも荒れて鬼が棲むだけの要因があると人々は考えていたのかしら。宇多上皇のところに化けて出たというのは理由があると思われます。というのもね、融さんは天皇になりたくて、一度チャンスがあったときに「私なんかはどうだろう」と発言してるのです。(『大鏡』など)けれど「いったん臣籍に下った人が天皇になるなんてありえない」と却下されてしまいました。それが。この宇多さんは臣籍に下っていたにもかかわらず天皇になれた人なのですよ。それ、頭くるじゃありませんか、融さんにしてみたら! しかも、その宇多さんを推挙したのは融さんに「ありえない」といった人、藤原基経その人だというんですから全く持って腹に据えかねますわよ。そりゃ、化けて出たくもなるってもんです。
*5 「君まさで煙絶えにし塩釜のうら淋しくも見え渡るかな」 古今和歌集。巻16に載ってます。
*6 紀貫之さん。*5の歌の作者です。872-945年。895年に融さんが75歳でなくなったときでもやっと23歳ですか。一緒に遊ぶ年齢ではないでしょうけど、お互いのこと知ってたでしょうね、当然。文化人同士ですから。
*7 返らぬ昔が恋しい……これね、ただ、面白おかしく河原院で遊んでいたころの事が懐かしいのじゃないと思うんですよね。ある、手の届かぬ方に恋をしていた、という説もありますけれど。(先ほど出た京極御息所です。けれどちょっと無理があるよね。融さんが亡くなったのは895年、京極御息所こと藤原褒子さんが宇多さんのとこにお嫁入りしたのは919年ごろだそうですから融さんは彼女の事知らなかったんじゃないかな、生前には。もちろん、死んだ後に見かけて惚れたということもありえない事ではないですけどね、たいそう美しい方だったそうですから。)なんといいますかね、融さんは淋しかったんじゃないのかしら。天皇になれなかったことが。この融のお話を見ていても、大好きでたまらなかった河原院にまた来れた、やっぱここはサイコーだぜ、みんなありがとう! って雰囲気じゃないと思いません? 優雅に遊ぶにしても、何か心に押し隠しているような、というか、空元気を出しているような気がするのです。そこで、融さんが泣いて渇仰する「返らぬ昔」というのは、まだ天皇になれる望みのあった昔、といいますかいろいろな「可能性」があったころ、なのではないかなと考えてみたり。よいお能で観ると、最後に帰っていくときにぎゅっと心をつかまれるのですが他の、満足して舞って帰っていったような子なら「よかったね、バイバイ」と思いますし成仏できた子にもそう思うのですが、融さんの場合はちょっと違うのです。追っかけていきたくなるような…そう、私にはもう少し何かしてあげられることはなかったかしら、というような悔悟の念にも似た思いがするのですね。後場で出てきたときに「忘れてたのにまた来た」っていうでしょう? あれも不思議なセリフです。(他にも『江口』『雲林院』『関寺小町』などにも出てくる言葉ですが。)どうして忘れてたのかしら。忘れようとしてるんじゃないのかしら。井筒ちゃんや通小町ちゃんはずっとうろうろしてそうですけど(そしてその度ごとに出会ったお坊さんそれぞれとああいうお話を繰り広げているような気さえします。)融さんはほんとに、この日、死後初めて来たような感じがするのです。そして本当に、もうこれっきり。本当に忘れきるために、もう一度だけ思い出して存分に遊んだというか、ねえ。ああ、わけ分かんなくなってきましたけど。そうだ。諦観。これが漂ってるんだわ、融さんには。
*8 浦千鳥=浜千鳥=磯千鳥=川千鳥ってことのようです。水辺に群れいる小さな鳥たち。そのなかでも、ここは「うら淋しい」とかけられて、より寂しさをつのらせることのできる「浦千鳥」が使われているのでしょう。ちりちり、と泣くそうです。切ない鳴き声ですね。


◆場面6・僧に京都の名所を教える老人◆
ワキ 「いかに尉殿。見え渡りたる山々ハみな名所にてぞ候らん御ヘへ候へ 旅僧 「もし、ご老人。ここから見渡せる山々は、すべて名所なのでしょうね、教えて下さいませんか。
シテ 「さん候皆名所にて候。御尋ね候へヘへ申し候べし 老人 「ええ、皆名所でございます。聞きたいところを言ってくださればお教えいたしますよ。
ワキ 「まづあれに見えたるハ音羽山候か 旅僧 「では、まずあそこに見えている山ですが、あれは音羽山*1でしょうか。
シテ 「さん候あれこそ音羽山候よ 老人 「そうです、あれが音羽山でございます。
ワキ 「音羽山音に聞きつゝ逢坂の。関の此方にと詠みたれば。逢坂山も程近うこそ候らめ 旅僧 「ほら、歌がありますね。“音羽山音に聞きつつ逢坂の関の此方に……*2”という歌が。その歌から察するに、音羽山のほど近いところに逢坂山*3もあるのでしょうね。
シテ 「仰せの如く関の此方にとハ詠みたれども。あなたに當れば逢坂の。山ハ音羽の峯に隱れて。この辺よりは見えぬなり 老人 「仰る通り“関の此方に”と歌にはありますけれどもね、あちら側に当たりますので逢坂山はちょうど、音羽山の峯に隠れてしまいましてこの辺りからは見えないのです。
ワキ 「さてさて音羽の峯つゞき。次第々々の山竝の。名所々々を語り給へ 旅僧 「それでは次は音羽山から峰続き*4となって次々と並んでいる山々の名所を教えてください。
シテ 「語りも盡さじ言の葉乃。歌の中山清閑寺。 老人 「歌が詠み尽くせないのと同じことで言葉を使って語り尽くすのも無理なことでしょうけれども、あれが歌の中山清閑寺*5でして。
シテ 「今熊野とハあれぞかし 老人 「今熊野*6、というのはあの辺りになります。
ワキ 「さてその末に續きたる。里一村の森乃木立 旅僧 「その裾の方に続きまして、一つ集落がありますね。あそこの森の木立は何ですか?
シテ 「それをしるべに御覧ぜよ。まだき時雨の秋なれば。紅葉も青き稲荷山 老人 「その木立を目印にご覧なさい、“まだき時雨*7”の秋ですから色付いておらず青葉のままの紅葉のあるところ、あそこが稲荷山*8ですよ。
ワキ 「風も暮れ行く雲の端乃。梢も青き秋の色 旅僧 「風にも日暮れが感じられてきましたね。この風に吹かれ行くあの雲の端がかかった青い梢で秋らしい色を見せているのは?
シテ 「今こそ秋よ名にし負ふ。春ハ花見し藤の森 老人 「今は秋なので青い梢しか見えませんが、あそこは春になれば藤の花の花見客で賑わう藤森*9ですよ。
ワキ 「緑の空も影青き野山につゞく里ハ如何に 旅僧 「空は緑に、山影は青く見えていますね。あの青い野山に続く里はどこですか。
シテ 「あれこそ夕されば 老人 「あそこですか、あそこはですね、“夕されば……*10”ですよ。
ワキ 「野辺の秋風 旅僧 「夕されば……“野辺の秋風”、ですね。
シテ 「身にしみて 老人 「そうそう、“身にしみて……”
ワキ 「鶉鳴くなる 旅僧 「鶉がなくという……
シテ 「深草山よ 老人 「そう、深草山*11があそこなのですよ。
「木幡山伏見の竹田淀鳥羽も見えたりや 地謡 「そこから南へ見渡すと木幡山*12、伏見の竹田*13、淀*14・鳥羽*15も見えていますよ。


*1 音羽山は京都に二つありますがここでいう山は、河原院のすぐ東にある清水寺背後の山、清水山だと思われます。清水山は音羽山とも呼ばれています。京都と滋賀の県境にあるほうの山だとありますが、そちらは河原院からは見えないんじゃないかと。この清水山=音羽山に遮られて。それに、このあとで言われるように「峯続き」なのは間違いなく清水山のほうですしね。
*2 「音羽山音に聞きつつ逢坂の関の此方に年を経るかな」在原元方さんの歌です。古今和歌集に採られています。音羽山のように音に、即ち噂にあなたのことは聞きますけれども、逢坂=逢う坂を越えれば近江=逢う身とは名ばかりで、あなたに逢えずにこうして関のこちら側で徒に日々を過ごしております……という切ない歌でございます。そんな歌詠んでる暇があったら逢いに行けー! とはいってもね、そうもいかないから辛いんですよね、うんうん。
*3 この逢坂山を知らない人はいないのではないかしら。ある程度古典好きの方なら。そら、百人一首でも詠まれてるじゃないですか。「知るも知らぬも逢坂の関」とか「夜に逢坂の関はゆるさじ」とか。京から近江へと出るときに越える山が逢坂山で、そこに昔は関所が拵えてありました。京の東の玄関口ですから人々が足繁く往来いたしました。「人と人とが逢う坂」。いい得て妙! この舞台にこの名前、物語がうまれないわけがありません。
*4 「峯続き」といわれているように、京の都の東側には山並がつらつらと北から南へ伸びています。これがいわゆる東山三十六峰ですね。ひときわ高い比叡山から始まって稲荷山まで山並が続いているのです。三十六峰の数え方には色々と説があり、というかそもそも36という数字は語呂がよいからつけられたようなものらしいのですが、ある数え方を用いますと比叡山を第一峰としまして、清水山(音羽山)は第二十九峰とされています。
*5 「歌の中山清閑寺」。よくセットで聞く名前ですが、なぜ「歌の中山」というかというと、この清閑寺のお坊さんが修行中の身の上だというのにきれいな女の人を見て心動かされ、お友達になりたいと思って声をかけたら「見るにだに迷う心のはかなくてまことの道をいかでしるべき」と返されてしまいました、その女性は実は観音様の化身だったのです、というお話があるからだそうです。このあたりの山を清閑寺山といい、先ほど言いました東山三十六峰の第三十峰に数えられています。
*6 大人気の熊野神社を京の都に勧請したのがここ、今熊野です。今熊野山は東山三十六峰の第三十二峰です。
*7 
「我が袖にまだき時雨の降りぬるは君が心に秋や来ぬらん」古今和歌集の歌です。。時雨といえば秋に降るもので、この時雨によって紅葉は紅に染め上げられていくのです。けれど、まだ秋ではないのに私の袖にはもう時雨が降っています。(涙に濡れています、ということ。)それは、もう秋が来たから……あなたの心に飽きが来てしまったからなのですね、という哀しい歌の一節です。
*8 この稲荷山が東山三十六峰の南の端にあたります。つらつらと続いた山並もここでひとまずおしまいです。稲荷山にはその名から推察されるとおりお稲荷さんがあります。そのお稲荷さんこそ、伏見稲荷大社でございます。行ったことのない方も、毎年初詣客の多さで新聞等に載りますから(いつも五位以内に入っていますよね)ご存じなのではありますまいか。
*9 平安京よりも古くから崇敬されている歴史の古い藤森神社があります。
*10 
「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」千載和歌集掲載の、藤原俊成の歌です。この和歌をお互いに知っていてですね、それを引き合いに出して会話をするなんて、実に知的なやりとりではありませんか。私は会話に加われそうにありません。しょぼん。
*11 稲荷山の南の裾のあたり一帯が深草で、稲荷山の南側を深草山とも言ったそうです。お能で深草といえば深草少将でありますな。ついでながら小野はこの深草の西にあります。
*12 木幡山は伏見山のことのようです。秀吉が伏見城を建てたあの山です。伏見桃山城キャッスルランドは残念なことにつぶれてしまいましたねー。今、明治天皇のお墓があるところが昔のお城の跡地です。木幡山とはいっても今の木幡よりずいぶん北にある気がします。昔は「木幡」の概念が広かったのでしょうか。千葉にあっても東京ディズニーランドというが如し、ですかね。
*13 竹田は京の都の真南に当たります。都中央をずっと南下して奈良方面へ行く時にはいわゆる「竹田街道」を通っていきました。藤森の少し西あたりです。
*14 淀といえば競馬! とお思いになる方は多いのでしょうが私はこの方面には疎いのでそのことについては語りません・語れません。ここは、京を流れる三本の川、桂川・鴨川・宇治川が合流するところです。ここにお城をもらったから淀殿と呼ばれたお茶々さんは有名ですね。彼女は滋賀県出身ですからね。
*15 鳥羽伏見の戦い、といえば幕末好きの方の琴線に触れるのではないでしょうか。このあたりは鳥羽離宮があったりなんかしていい雰囲気の水郷だったんですよ。とはいっても鳥羽離宮が作られたのは1086年からなので融さんは見てないのですが竹田より少し西にあり、昔はこのあたりから舟に乗って川を下り、西方面へ行ったんですって。港だったのね。……と嫌になるほど細かく注をつけましてその割には中味がなくて申し訳ありませんがこうしてみてみますと、河原院の真東から山並を伝って南へ、山が途切れてから西へ、と視線を移していることがよく分かります。これだけ当時は見えていたってことですよね。今じゃ、色々なものに遮られてとても無理です。京都駅の駅ビルの屋上からならば、今もこんな具合に見えるでしょうね。と文字だけで説明してもあれですので、絵を描いてみました、ご覧あれ、って絵といってもただ位置関係を見て欲しいだけのものですから期待せずにこちらをクリックしてね。


◆場面7・汐を汲みつつ姿を消す老人◆
「眺めやる。其方の空ハ白雲の。はや暮れ初むる遠山の。峯も木深く見えたるハ。如何なる所なるらん 地謡 “眺めやるそなたの空*1”には、今は白い雲が見えているがもう暮れ初めて暗くなっているあの遠山、峰も木深くとりわけ生い茂っているように見えているところ、あそこは何だろうか。
シテ 「あれこそ大原や。小塩乃山も今日こそハ。御覧じ初めつらめ。なほなほ問はせ給へや 老人 「あれこそ大原*2の小塩山*3でしてね。“大原や小塩の山も今日こそは……*4”と歌われたところです。あなたの場合はさしずめ今日こそ、初めてご覧になったのでしょう、というところですな。他にも、もっとお聞きくださっていいですよ。
「聞くにつけても秋の風。吹く方なれや峯つゞき西に見ゆるハ何處ぞ 地謡 「話を聞くうちにも吹いてくる秋風。その秋風が吹いてくる方向だという西方に、峰続きに見えているのはどこだろう。
シテ 「秋もはや。秋もはや。なかば更け行く松の尾乃嵐山も見えたり 老人 「秋ももう、半ばとなりました。秋は更け行き、風は吹き行くんですな。風に吹かれる松の松尾*5・嵐山*6までもが見えておりますよ。
「嵐ふけ行く秋の夜乃。空澄み昇る月影に 地謡 「嵐は吹き行き、更け行く秋の夜。澄み渡る空に昇る月よりさしくる光。
シテ 「さす汐時もはや過ぎて 老人 「ああ、潮のさす時間ももうとうに過ぎてしまっておりますなあ。
「暇もおし照る月にめで 地謡 「時間は惜しいというのに照り渡る月を眺め
シテ 「興に乘じて 老人 「つい、興に乗ってしまいまして
「身をばげに。忘れたり秋の夜乃。長物語よしなやまづいざや汐を汲まんとて。持つや田子の浦。東からげの汐衣。汲めば月をも袖に望汐の。汀に歸る波の夜乃。老人と見えつるが汐曇りにかき紛れて跡も見えずなりにけり跡をもみせずなりにけり  <中入> 地謡 「全く、我を忘れてしまい秋の夜長にすっかり長物語をしてしまいました、つまらぬことを致しました。まず、汐を汲みませんとな……。 
  と、老人は担桶*7を持って浦に立ち、東流に潮衣の裾をからげる。満月の夜の汐を汲めば袖は潮に濡れる。水面に映る月を汲めば桶にも、そして袖にも望月を持つことになろうか。汀に波が打ち寄せる。夜も更けあたりが暗くなっていく中、汐を汲み終えて汀に帰ってくる老人を見ていたのだがいつのまにか潮曇にかき紛れるように消えてしまい、見失ってしまった。


*1 「眺めやるそなたの雲も見えぬまで空さへ暮るる頃のわびしさ」という歌が『源氏物語』の「浮舟」に出てきます。匂宮が浮舟さんのことを思って詠み送った歌です。
*2 「京都〜大原三千院♪」の方の大原でなくてですね(といってこの歌を今時の若い子は知っているのでしょうか)、いわゆる大原野、の方でございます。京都の西側、嵐山や嵯峨野の南に開けているところ。その名もズバリ大原野神社がありますのでそこを目印にどうぞ。
*3 小塩山は大原野の西側にある山です。紅葉や桜の美しいところで昔から人気のあったお山です。頂上には第53代の天皇・淳和さんのお墓があります。嵯峨天皇の弟で、融さんには叔父さんにあたります。
*4 「大原や小塩の山も今日こそは神代のこともおもひ出づらめ」古今和歌集、在原業平さんの歌です。これは清和天皇の奥さんで陽成天皇のお母さまである藤原高子さんがまだお若いとき(皇太子夫人、という立場だった頃)に大原へ行かれた時のことを詠んだものです。なんでも、当時は藤原氏一族では女の子が生まれると「天皇の奥さんになれますように」とここの大原野神社でお祈りし、それが叶うと盛大な行列でもってお礼参りをすることが通例となっていたそうです。高子さんもめでたく皇太子夫人(当時は東宮の御息所といったのでしょう)になれたのでお礼に訪れたのでしょうか。たいそうキラビヤカな一行が小塩山を訪れたのでしょうね、その様を「小塩山も、このような盛儀を見て神代の昔の豪華な様を思い出したんじゃないかしら」と表現したのです。神代の昔とは、大原野神社の第三殿の祭神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)が高子さんのご先祖にあたるのでその活躍なさったであろうときのことをさしていってるのだそうです。
*5 松尾は京都の西にある名所です。松尾大社はお酒の神様として有名です。狂言の「福の神」でもちゃんと敬意を払われてますよね。おいしいお水が湧いています。行くときは水筒忘れないでね。
*6 嵐山はご説明いたすまでもありますまい。有名ですもの。山の名前だけでなく、あたり一帯の地名でもあります。
*7 水を汲む桶の担桶(たご)と田子の浦をかけています。田子の浦といえば「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」と百人一首にもあるように(万葉集では「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」)、富士山のふもとの地名です。そこから「東からげ」につながると。そういうことなのだそうです。謡曲の詩章はまさに連想ゲームですな。


◆場面8・間狂言その1◆
アイ 「かやうに候者は。このあたりに住居する者にて候。今日は罷り出で心を慰めばやと存じ候。いやこれに見馴れ申さぬ御僧の御出でなされ候が。いづ方より参詣なされ候ぞ 里人 「私はこの辺りに住んでいる者であります。今日は心を慰めるためにここへ出て参りました。おや、ここに見慣れないお坊様がおいでなされます。どこよりお参りになったのですか。
ワキ 「これは諸国一見の僧にて候。御身はこのあたりの人にて渡り候か 旅僧 「私は諸国を巡り歩いている僧です。あなたはこの辺りの方ですか。
アイ 「なかなかこのあたりの者にて候 里人 「そうです、近くの者です。
ワキ 「左様にて候はばまづ近う御入り候へ。尋ねたき事の候 旅僧 「それならばまず傍へ来てください。お尋ねしたいことがあるのです。
アイ 「畏つて候。さて御尋ねなされたきとは。如何やうなる御用にて候ぞ 里人 「わかりました。 さて、お尋ねになりたいとは、どのようなことでしょうか。
ワキ 「思ひもよらぬ申し事にて候へども。古融の大臣。陸奥の千賀の塩釜をこの所に移されたる様体。御存じに於ては語つて御聞かせ候へ 旅僧 「唐突だとお思いになるでしょうけれど。昔、融大臣が陸奥の千賀の塩釜をここへ移された時の様子をご存知でしたらお話していただきたいのですが。
アイ 「これは思ひも寄らぬ事を承り候ものかな。我等もこのあたりに住居仕り候へども。左様の事委しくは存ぜず候さりながら。始めて御目にかゝり御尋ねなされ候事を。何とも存ぜぬと申すもいかがにて候へば。凡そ承り及びたる通り御物語申そうずるにて候 里人 「これはまた思っても見ないことをお尋ねになりましたね。私共もこの辺りに住んではおりますが、そういったことは委しくは存じませんのです。けれど、初めてお目にかかりましてお尋ねされましたことを「知りません」とだけ申すのもどうかと思いますので、おおよその、知っていることだけですがお話いたしましょう。
ワキ 「近頃にて候 旅僧 「それはどうもありがとうございます。


◆場面9・間狂言その2◆
アイ 「さる程に融の大臣と申したる御方は。人皇五十二代嵯峨天皇の末の御子にて御座ありたると申す。人皇五十六代清和天皇の御宇。貞観十四年八月に左大臣に任ぜられ。仁和三年には従一位に昇り。寛平元年には御年六十七にて輦車の宣旨を蒙り給ひ。誠に官位俸禄までも類ひ少く。優にやさしき御方にて御座あると申す。又大臣は世に優れたる御物好みにて。色々の御遊数を尽し給ふが。御前にてある人の申し候は。陸奥の千賀の塩釜の眺望面白き由。御物語聞し召し。御下向あつて御覧ありたく思し召せども。余り遠国の事なれば。都の内へ移し御覧あるべきとて。絵図を以てこの所へ塩釜を移し。賀茂川の水を引下し。遣水泉水築山の様体を夥しくなされ。潮は難波津敷津高津この三つの浦より潮を汲ませ。三千人の人足を以て営む故。潮屋の烟などの気色。御歌に詠み給ふに少しも違はず。これほど面白き事はあるまじきとて。一生の御遊の便りとなされ。あれに見えたるを籬が島と申して。あの島へ御出であつて。御遊さまざまありし折節。音羽の山の峯よりも出でたる月の。籬が島の森の梢に映り輝く有様。見事なる様体。貴賎群集をなし見物仕り候 




頃は神無月晦日がたに。菊紅葉の色づき。千種に見えて面白き折節は。この所へ親王上達部などおはしまし。心ばへの御歌などあまた遊ばし候。中にも在原の業平は。皆人々に詠ませ果てて。塩釜にいつか来にけん朝なぎに。釣する舟はこゝに寄らなんと。かやうに詠ぜられたる御歌。誠に殊勝なる由承り候。


されば年月の過ぐるは程もなく。大臣薨じ給ひて後は。御跡を相続して翫ぶ人もなければ。浦はそのまゝ干汐となり。名のみばかりにて御座候。又かやうに荒れ果てたる所を。貫之の御歌に詠ぜられたると承り候。
里人 「さて、融大臣と仰るお方は、第五十二代嵯峨天皇の末のお子さまだそうです。第五十六代の清和天皇のとき、貞観14年8月に左大臣に任ぜられまして、仁和3年には従一位に昇進し、寛平元年には御年67歳で輦車の宣旨*1をお受けなさいました。本当に、官位も俸禄も素晴らしく、また非常に優雅で美しくすぐれたお方であったそうでございます。また、融大臣は趣味人でして、色々と風雅の遊びをなさいました。ある方から陸奥の千賀の塩釜の眺望が大変素晴らしいというお話を聞きなさって、ぜひとも下向して見てみたくお思いになられたのですが陸奥といえばあまりにも遠うございますのでね。それでその景色をこの都のうちにうつして、そこで楽しもうとお考えになりまして、絵図面を描かせてそれをもとにここへ塩釜の景色を再現し、鴨川の水をひいてきて遣水・泉・築山等をこしらえなされました。海水は難波津・敷津・高津の御津の浜より汲ませました。三千人もの人足を使っておられたそうです。それだけの労力をかけているだけあって、塩を焼く潮屋から昇る煙などの風景は、歌に詠まれているのと少しの違いもなく、こんなに面白いことはない、といってここで生涯風雅を楽しんでおられました。あそこに見えている島は籬が島と申しましてね、あそこへ舟を出し、舞やら音曲やら、さまざまに皆さんが御遊なさっていた時、音羽山の峰から顔を出した月が籬の島の森の梢を照らし出す有様はそれはそれは見事なもので、貴きも賎しきも、みな集まってきまして見物しておりましたそうです。  

  十月の末頃、菊も紅葉も色付いて色々に姿を見せる面白い季節には、ここへ親王や上達部*2などもお出でなされ、見事な歌をたくさんお詠みになるなどして遊ばれました。中でも在原業平さま*3は、集まった人々みんなに歌を詠ませ、その後ご自分で「塩釜にいつか来にけん朝なぎに釣する舟はこゝに寄らなん」と、このようにお詠みになられましたが本当に素晴らしいものだとうかがっております。

そうして年月は過ぎ、融大臣がお亡くなりになったあとはこの跡を受け継いで遊ぶ方もおられませんでしたので浦はそのまま干汐となり、名前ばかりになってしまいました。また、このように荒れ果てたところを紀貫之さまが歌に詠まれたともうかがっております。


*1 輦車とは、屋形に車を付けて、手で引く乗り物です。内裏の中は普通は歩くものですが、東宮・親王・摂政関白・女御などごく一部の特別な人だけがこれに乗って入ることを許されました。融さんもその仲間入りをした、ということです。一般人には中へ入ることすら思いもよらない内裏を車に乗って移動していいんですからね。すごいことですね。
*2 三位以上の人、および四位の参議。ようするに公卿のことです。公卿についてはもう少し後で詳しく。ね。
*3 在原業平といえば優れた歌詠みにして平安時代きっての色男。825−880年。融さんとは3つ違いです。融さんと仲がよかったと分かる逸話が『伊勢物語』に出てきます。河原院にも遊びに来てたそうですしね。


◆場面10・間狂言その3◆
アイ まづ我等の承り及びたるはかくの如くにて御座候が。何と思し召し御尋ねなされ候ぞ。近頃不審に存じ候 里人 「およそ、私共の聞いておりますのはこのような話でございますが、どうしてこのようなことをお聞きになりたく思われたのでしょう、それが不思議です。
ワキ 「懇に御物語り候ものかな。尋ね申すも余の儀にあらず。御身以前に老人一人塩汲の体にて来られ候程に。即ち言葉をかはして候へば。塩釜の子細懇に語り。所の名所などを教え。何とやらん由ありげにて。汐曇りにて姿を見失うて候よ 旅僧 「詳しく語ってくださりありがとうございました。不思議にお思いになるのも無理はありません。あなたがこられる前に、老人が一人、汐汲みの姿でこられたのですが、いくらか言葉を交わしておりますとこの塩釜のことを詳細に語り、都の名所なども教えてくれまして、何だかただ者ではないように思っていたのですが汐曇で姿を見失ってしまったのです。
アイ 「これは奇特なる事を仰せ候ものかな。さては融公の現れ出で給ひたると存じ候。それをいかにと申すに。今にも月の明々たる折節は古塩を焼かせられたる様体。御沙汰ある由申し候が。御僧貴くましますにより。汐を汲む様体にて現れ給ひ。御言葉をかはされたると存じ候間。暫く御逗留ありて。重ねて奇特を御覧あれかしと存じ候 里人 「これは不思議なことを仰いますね。それは、融公が現れなさったのだと思いますよ。なぜかと申しますと、今しがた月の晧々と照る夜には塩を焼かせなさっていたらしい、という話をしましたが、お坊様が貴いお方なので汐を汲む姿で現れ、お言葉を交わされたのだと思います。暫くここへ逗留なさって、もう一度融公の現れるのをご覧になるがよろしかろうと思います。
ワキ 「近頃不審なる事にて候程に。暫く逗留申し。重ねて奇特を見うずるにて候 旅僧 「全く不思議なことですので、暫くここへ留まり、また融公の現れる様子を見たいと思います。
アイ 「御用の事も候はば重ねて仰せ候へ 里人 「もし何か御用がございましたらどうぞ、お申し付けください。
ワキ 「頼み候べし 旅僧 「その時はお頼みしましょう。
アイ 「心得申して候 里人 「わかりました。


◆場面11・河原院に寝て融の再来を待つ僧◆
ワキ 「磯枕。苔の衣を片敷きて。苔の衣を片敷きて。岩根の床に夜もすがら。なほも奇特を見るやとて。夢待ち顔の旅寝かな夢待ち顔の旅寝かな 旅僧 「磯を枕*1とし、苔*2を敷布にして僧衣を掛けて寝るとしよう。この岩根を床として、夜通しさらなる奇特に遭遇できればいいが、と思いそんな夢を見られることを心待ちにして旅寝をしよう。もう一度、融の大臣の現れてくれることを夢見て……。


*1 京都の真ん中ですがここは塩釜の浦なので磯、といっているのです。はじめに「何で汐汲みなんですか」と言っていたことを思えばお坊さまにはここはもうすっかり海辺になっているのですね。
*2 お坊さまの衣のことを苔衣というようです。粗末なもの、という意味からでしょうか。


◆場面12・在りし日の融大臣登場◆
シテ 「忘れて年を經しものを。また古にかへる波乃。満つ塩竃乃浦人の。今宵の月を陸奥の。千賀の浦曲も遠き世に。その名を殘すまうち君。融の大臣とハ我が事なり。われ塩竃の浦に心を寄せ。あの籬が島の松蔭に。明月に舟を浮かめ。月宮殿乃白衣の袖も。三五夜中の新月の色 融大臣 「忘れてからずいぶん年が隔たっているがまたその昔へ帰ってきた。波が返るように。帰る波で満ちる塩釜に浦人がきたのだ、その塩釜に昇る今宵の月を見るために。陸奥の千賀の浦は遠くの地からこの都まで名を響かせている。また、同様に遠い昔から今にまで名を残している前つ君*1・融大臣とは他でもない、この私のことである。 
  私は塩釜の浦の景色にあこがれ、この六条河原院に移したのだ。明月の夜にはあの籬が島に生い茂る松の木陰に舟を浮かべたものだった。月の都の月宮殿の天人たちも十五人が皆白衣となって*2袖を振るっていただろう、私の舞う姿もさながら天人たちのようだったことであろう。そう、白衣の袖は生まれたての満月の光を一身に浴び、より白く輝いていたのだから。
シテ 「千重ふるや。雪を廻らす雲の袖 融大臣 「千重に降り積む雪を見るかのごとく、袖を幾重にも振るって舞おう。雲の如き袖から雪が舞い散るかの如くに。
「さすや桂の枝々に 地謡 「舞の手をさす様は月に生える桂*3の枝々が
シテ 「光を花と。散らすよそほひ 融大臣 「月の光を受けてあたかも光が花であるかのように咲き散らす風情である。
月に生える桂の枝々から月の光が花咲く態でさし散らされるかのようだ。
「此處にも名に立つ白河の波乃 地謡 「この京にも陸奥にあるのと同じく名の知られた“白河*4”があり、その白河の波も立っている。
シテ 「あら面白や曲水の盃 融大臣 「その白河から引いた庭の遣水に月が映りこんでいる。おお、ちょうど曲水の盃*5のようではないか。
「受けたり受けたり遊舞の袖 
 <早舞>
地謡 「頂こう、御酒を。水を掬って月の盃をもこの袖に写し取ればさらに光を増すことだろう、この翻る舞の袖も。


*1 まへつきみ→もうちきみ と、音が変化したのです。その「前つ君」とは天皇に伺候できる位の人、すなわち公卿をさす言葉です。公卿とは太政大臣・左大臣・右大臣の「公」と参議・大納言・中納言・三位以上の「卿」のことで、融さんは参議と左大臣を経験しておりますから紛れもなく前つ君ですね。この前つ君というのは天皇が変わるとまた新たに決められるものなのでその時々で人数に差はあるのですがだいたい20名ぐらいだったとか。エリート中のエリートですわ。この人たちが国を動かしていたんです、当時は。ついでに、太政大臣は名誉職のようなものだったので実質のbPは左大臣だったそうです。おお。
*2 月の都の月宮殿には白衣15人、黒衣15人の合わせて30人の天人がいて、彼女たちは毎日舞っています。全員一緒に舞うことはなく、一日に15人ずつと決まっています。また、そのメンバーにも決まりがあり、初めの日は黒15人で舞います。翌日は黒14人と白1人、その翌日は黒13人+白2人、……というように順に黒衣が減り、白衣が増えていきます。白衣の天人15人で舞った翌日は、白14人+黒1人、と今度は白が減って黒が増えます。それがすなわち月の満ち欠けとなっているのです。満月の夜に舞っているのはみんな白衣の天人なのですね。
*3 中国の伝説によれば月には高さ五百丈、すなわち1500メートルほどの桂の木が生えているのだそうです。桂、といっても日本の桂の木とは違い、伝説上の木なのだとか。
*4 比叡山と如意ヶ岳の間から流れ出る白川は、山裾を通って南へ下り、三条あたりで西へ折れて鴨川と合流しています。川も有名ですが、地名としても有名ですよね。そして、奥州の白河の関はその名の通りすぐ近くを白河が流れています。塩釜は宮城県ですが白河は福島県にあります。
*5 曲水の宴という風流な遊びがありまして。お庭にゆるゆると曲がった溝を作りそこへ水を引いてきまして、そのポイントポイントに人々が座るわけです。そこへ、上からお酒の注がれた盃が流されてくるのです。それが自分のところへくるまでに即興で和歌を詠み、詠んだ後にその盃を取り上げてお酒を飲む、という中国から伝わった遊びです。水面に映るまるい月をその盃とみているのですね。しかし、掬うからには和歌を詠んだのでしょうか。ま、融さんなら造作ないことでしょう。


◆場面13・融大臣、月を楽しみ、月を謡い、月に帰る◆
「あら面白の遊楽や。そも明月のその中に。まだ初月の宵々に。影も姿も少きハ。如何なる謂はれなるらん 地謡 「なんと面白い月遊びであろう! 
 そうそう、月といえば明るく照らすものだというのに、その中でも月初めの宵に姿を現す月は光も弱く姿も小さいがそれは一体どうしてだろうかね。
シテ 「それハ西岫に。入日の未だ近ければ。その影に隱さるゝ。喩へば月のある夜ハ星の淡きが如くなり 融大臣 「それは西の山々近くに沈み行く夕陽がまだ出ているのでその強い光の影に隠されてしまっているからだ。ほら、例えるなら月のある夜の星、あれが月影に負けて薄く見えるのと同じこと。
「青陽の春の始めにハ 地謡 「万物萌えいずる春のはじめの頃には
シテ 「霞む夕べの遠山 融大臣 「夕方、霞んで見える遠くの山々は
「黛の色に三日月乃 地謡 「黛*1のように薄青く、ゆるやかに弧を描くよ、三日月のように。
シテ 「影を舟にも喩へたり 融大臣 「水に映る三日月の影は舟にも例えられよう。
「また水中の遊魚ハ 地謡 「また、それをみて水中に遊ぶ魚たちは
シテ 「釣針と疑ふ 融大臣 「釣り針ではないかと疑い
「雲上の飛鳥ハ 地謡 「雲の上を飛ぶ鳥は
シテ 「弓の影とも驚く 融大臣 「弓の影ではないかと思って驚くのさ
「一輪も降らず 地謡 「月輪は地に降りず*2
シテ 「萬水も昇らず 融大臣 「水も天には昇らない*3
「鳥ハ。池辺の樹に宿し 地謡 「だからこそ鳥たちは安心して池のそばの樹に宿り、
シテ 「魚ハ。月下乃波に伏す 融大臣 「魚は月の映る波の下で眠っていられるというもの。
「聞くともあかじ秋の夜の 地謡 「時過ぎても聞き飽きぬ秋の夜の長物語。
シテ 「鳥も鳴き 融大臣 「しかし、夜明けを告げる鳥が鳴き
「鐘も聞えて 地謡 「鐘の音も聞こえてきた。
シテ 「月もはや 融大臣 「はやくも月が……
「影かたむきて明方の。雲となり雨となる。この光陰に誘はれて。月の都に。入りたまふよそほひあら名殘惜しの面影や名残惜しの面影 地謡 「月があんなに西へと傾いている。もう夜明けが近いのだ。雲も湧いたか雨も降ったか定かではないが目くるめく遊舞の時にとりどりの色模様を見せた遊楽の夜。時の流れ、遊楽の流れに身を委ねるうちに西方より照射される光陰。その望月の白い光に誘われて融大臣は消えていった。名残惜しさのうちに融大臣は月の都へと帰っていった。


*1 黛とは眉墨です。眉かき用のお化粧用のことも言いますし、書いた眉そのもののことも言います。山の形を眉の形になぞらえるのは決まりごとのようなもので、黛といえば遠くに見える山のことをさしてもいます。
*2・3 月が降りてこないのはあたりまえだけど水は天に昇ってるじゃーん、ということではなくてですね。月もその姿を水に映してはいるけれど降りてこない、水も、水蒸気になっていったん天に昇るかに見えるがまた雨となって戻ってくるのだから昇りきったままにはならない、ということです。これは本来は仏教の教えに用いられていた言葉です。そちらでは「月は降りず水は昇らない」の後に続きがあります。月は地に降りないし水が天に昇ることもない。けれど、月は高く昇るとどの水たまりにもその姿を映します。そのように、仏も誰しもの心に映し出されるのですよ、遠く離れていてもお互いの心は通いあえるのですよ、ということなのですって。ありがとう、仏さま。


おわり。