■第六回 淡海能■
平成十三年十月十四日(日)十一時始
連吟 竹生島 素謡 菊慈童 仕舞 羽衣クセ OG会出演素謡 賀茂 舞囃子 高砂 半蔀 猩々 新声会出演仕舞 阿漕 招待校出演 京都橘女子大学能楽部 能楽 船弁慶 招待校出演 佛教大学能楽部 舞囃子 葛城 天鼓バンシキ 番外仕舞 鵜之段 顧問出演舞囃子 融 番外仕舞 兼平 善知鳥 附祝言 終了予定 十六時すぎ
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学長挨拶 彦根と能 滋賀県立大学学長 西川幸治 能楽部が発表の場としている彦根城博物館は、井伊家に伝えられた近世の大名文化を収納し展示する施設として注目されている。とりわけ、能装束や能面、能小道具などは、その豪華さによって私たちをひきつけている。 近世の大名が能をたしなむようになったのは、五代将軍綱吉のころだといわれている。各地の大名は江戸屋敷や ところが、明治維新によって、近世の大名文化は大きい改革をせまられた。その遊郭の多くは撤去され、大名たちも明治の新政府の要員として再編成されることになった。そのなかで、井伊直弼の孫、直忠は異なった生き方を示した。学習院中等科を卒業すると梅若万三郎に師事して能楽に没頭し、能装束や小道具の蒐集にも熱心で、世間にでることを嫌い、年一度の宮中参賀にも病気と称して出かけることはなかったと、井伊正弘さんは追想している。(『わが感慨を―井伊家の歴史と幼時の思い出など―』) じっさい、横浜に井伊大老の銅像が建立された時、その除幕式の趣意書に「開国の恩人」とあるのをみて反発し山縣有朋らの元老たちは申し合わせて欠席するという事態がおこっている。こうした雰囲気のもとで、直忠は能の修行にかけることになったのだろう。野上弥生子『迷路』の中で、「尊皇攘夷、徳川幕府打倒を巧みに文明開化主義にのりかえた明治の権力者」にたいし、「開国するか、それとも江戸を黒船の砲火のいけにえにするか、時の大老としての祖父は二つの責木に身を挟まれ」「報いは桜田門の横死」となったことに屈折した思いをいだき「世捨人となって好きな能楽に逃避し」た生き方を選んだとしている。 きびしい近代を能楽に傾倒して生き抜いた直忠の思いが、いま彦根城博物館の能楽をめぐる文化遺産として結晶しているのだといえよう。彦根城博物館の能舞台も、表御殿の撤去で井伊神社、護国神社へと移築され、表御殿が彦根城博物館として再現された時、元の位置に復帰したのだった。 |
顧問挨拶 舟弁慶によせて 滋賀県立大学能楽部顧問 脇田 晴子 今年の淡海能は、三年生諸嬢諸君による「舟弁慶」がでるそうである。我が滋賀県立大学能楽部には、御指導の深野新次郎先生の御丹精による能楽の小道具の舟があるので、「舟弁慶」を、やりなさい、やりなさいと言っていた顧問の私としては、まことに大満足の次第である。 「舟弁慶は」観世小次郎信光の作。戦国の幼少の甥の観世大夫を抱えて、旅から旅へ巡業した、小次郎の苦心の作である。 幽玄という美意識を追求して、貴族の賞翫する高度な芸能を追及した世阿弥と違って、小次郎は、町々村々の人々が面白しという猿楽能を上演しなければならなかった。二〇〇〇年の淡海能のこのパンフに書いたように、「声聞師」という被差別民の中から出てきた猿楽師たちは、観阿弥・世阿弥が、時の将軍、足利義満の愛顧を受けることによって、被差別民身分から抜け出して、飛翔したのである。しかし、戦国期になると、将軍家の保護の力は弱くなる。しかも巡業のお膳立てをしてくれた声聞師の世界から脱却してしまっている。幕府から大名に保護を頼んだり、多額の借金をしたり、なかなか大変であった。 観世座は、声聞師たちが猿楽能を演じることさえ、幕府御用を傘に着て弾圧していたのである。もはや、全国の芸能興行のネットワークを持っていた声聞師たちに頼ることは許されない。幕府は力が無い。そのなかで、幼少の大夫を抱えた小次郎は苦悩した。その苦心の中で、民衆の人気を得る猿楽能を創作した。その一つが「舟弁慶」である。「舟弁慶」は実に面白い能である。 私事になって恐縮だが、子方は幾つかやったとはいえ、私の初めてのシテは、「舟弁慶」である。次男を子方の義経に使って、親類たちの観客を集めたのである。それを見たフランスの友人の希望で、マルセーユで「舟弁慶」の舞囃子をやった。フランス人製作の薙刀が重くって四苦八苦した。のちパリでもう一度「舟弁慶」をやってくれと頼まれた。翻訳ができていないこともあるが、やはり「舟弁慶」が面白いと言われた。 今、各地の薪能で「舟弁慶」をはじめ、戦国時代のいわゆるスペクタクル能が人気だという。やはり世の中どうなっていくかわからない。その時代像に「舟弁慶」はマッチしているのである。楽しい能楽会にしてください。 |
連吟・竹生島 日本で最大にして中央に位置する我らが琵琶湖。この琵琶湖は近畿一四〇〇万人の命の糧となる水を湛えているだけではありません。霊験あらたかな神様がおられます。そのお方の名は弁才天。土地豊穣の神にして智恵をつかさどり、果ては音楽にも秀でているという多才な弁才天さんのお住まい・竹生島は聖地として昔から有名で、謡曲にもなっています。噂の弁才天さんを拝みに都人がやってきて幸いにも竜神さんと弁才天さんにお会いできる、というお話なのですが、途中で琵琶湖の情景の素晴らしさも謡われています。今回は、都人がお爺さん(実は龍神)とお姉さん(実は弁才天)に舟に乗せてもらって大津市真野のあたりから竹生島まで行く場面を謡います。 「今は、湖の上にいます。ほら、琵琶湖に迫る山々をご覧なさい。今を盛りと咲く桜がまるで白い雪のよう。ずっと雪を頂いていて、“季節を知らない”と言われる富士山のようです。春とはいえ、寒さの戻る寒い日もあります。そんな日に比良の嶺颪が吹いても、沖に出る舟が無くなることはないのですよ。 旅の常ではありますけれど、思いがけなく遠い都の身分の高い人と同じ舟に乗り合わせてお近づきになれました。舟を進めていくとほら、竹生島が見えてきましたよ。 島を覆う緑の樹々が影を湖水に映しています。魚たちが樹々の影の合い間を縫って泳いでいます。まるで木に登っているかのよう。月が湖面に姿を映すときには、月に住む兎が波間を駆けていくんですね。竹生島の景色はなんて素晴らしいんでしょう!」
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素謡・菊慈童 むか〜し、むかし、中国は周の穆王の御代でございます。王様にはそれはそれは大切にされている少年(慈童)がおりました。 ある時慈童は誤って、王様の枕をまたいでしまいました。王様は、他の者に示しをつけるため、慈童を深い山奥に追放することにしました。 しかし、それではあまりに可哀想に思われたのか、枕にお経のありがたい文句を書き、慈童に与えます。 時が流れること七百年、魏の文帝の御代でございます。ある山のふもとから薬になる水が湧き出るという噂をお聞きになった文帝は、勅使をお使わしになります。 そこで、勅使は菊に埋もれる庵の中に少年を見つけました。 勅使が怪しんで何者かと尋ねます。すると少年は自分は周の穆王に仕えていた者だと答えます。 そうです! この少年こそが七百年前、穆王に追放された慈童だったのでございます! では、どうして彼は七百年も昔の姿そのままに生き続けることができたのでしょう? それは彼自身に聞くことにしましょう! 「王は私を追放なさる時にありがたいお経を枕に書いてくださいました。私はそれを菊の葉に書いておきました。するとその葉から露が泉に滴り落ち、その水を飲んでいた私は不老長寿の身となったのでございます」 そう言って慈童は、勅使たちに長寿のために菊の水を授け、文帝に七百歳の寿命を与え、自分は薬酒の陶酔を舞い、菊をかき分けて庵へと帰っていきます。 この作品は、菊の花のめでたさを強調するのが目的なのです。また、慈童をひたすら美しく清明な明るさを持って表現する事により、爽やかなものになっています。
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仕舞・羽衣クセ 漁師白龍が、三保の松原で美しい衣を見つけ、持ちかえって家宝にしようとします。そこに天女が現れ、それは天の羽衣だから返してくれと頼みますが、白龍は国の宝にするといって聞きません。天女は天に帰れず悲しみに暮れます。 白龍はそんな天女を哀れに思い、羽衣を返す代わりに天女の舞を見せてくれと頼みます。舞うためには羽衣が必要だという天女を白龍は疑いますが、天女は天に偽りはないといいます。白龍はその言葉に恥じ入り、羽衣を返します。天女は美しい三保の松原の景色を謡い、めでたい世を寿ぎ、優雅に羽衣をなびかせ舞い、地上に宝を降らせます。そして霞に紛れて天に還っていきます。 全国各地に見られる羽衣説話と、能の「羽衣」が違うところは、説話の天女がみな人間と結婚して子を成すのに対し、能では天女の言葉に恥じた漁師がその場で羽衣を返すことです。能の天女は清浄で格調高い存在として描かれています。 私は能を始めて四ヶ月たらず。まだまだわからないことだらけですが、このお仕舞を見せてもらった時に、謡いの美しさに惹かれました。見てくださる方にその美しさわ感じて頂けたら幸いです(もちろん舞もみて頂きたいですが……)。 美しい天女に少しでも近づけるように頑張ります。
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素謡・賀茂 「私は播磨国の室の明神に仕える神職の者です。都の賀茂と室の明神とはご一体であるというので、はるばる京の都の賀茂神社にお参りに来ました。」 下鴨の神前を流れる 神職「その時代のものではない、今の世のこの矢までもがご神体であるのは、どうしてですか?」 女「水が澄んでも濁っても同じ流れであるように、また、賀茂川の呼び名が下流と上流では異なってもひとつの流れであるように。浅からぬ信仰心あれば、矢が新しくとも古くとも、その区別はないのです。年月は矢のごとく過ぎ、水は流れ去り元の水は帰らずとも、この流れの絶えぬことが、神への手向けなのです。」 神職「これほどにも詳しく語るあなたは…?」 「今さら愚かなことをおっしゃる。わからないのですか? 私はやんごとなき神なのですよ。」と女は告げると、白い幣にまぎれて神隠れしてしまった。 やがて、母神である (通低音として、せせらぎの音が聴こえ続けている)
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舞囃子・高砂 やがて空には月が輝き、目の前に広がる海を照らし始めました。波間より現われたのは住吉明神。帝と国を称え、民の幸福を祈る舞を披露します。 松は常に緑を絶やさず千年を生きると言われています。このことは言の葉が尽きないことにつながり、和歌の繁栄を象徴します。そして和歌が栄える時、国は安泰であるとされています。 元々和歌をたしなむ心は草木にも土砂にも、風や水の音にまで存在すると昔の人は言ったそうです。ましてや松は十八公と呼ばれ(松という漢字をばらしてみて下さい)、秦の始皇帝から公爵の位まで授かったといわれているほどで、なおさらその心は強いものです。そしてその松の中でも高砂と住吉の相生の松は、末代まで伝えられるほどめでたい松なのです。 高砂の松は一本で生えています。対となる松は住吉にいます。離れていても相生と呼ばれるのは、二本の心が一つだからだそうです。都に上る途中の阿蘇の神主は、高砂の浦で出会った、離れて暮らす木守り老夫婦にそう教えられます。 この老夫婦、木守りは仮の姿であり、実は相生の松の精だったのです。二人は神主に住吉へ来るように言い残して夕暮れの海へと姿を消します。 言われた通り住吉へやってきた頃にはすっかり夜になっていました。やがて空には月が輝き… 松は能舞台に欠かせないものです。鏡板の松、一の松、二の松、三の松。また日本の風景にも必須のもので、ここ彦根城にも「いろは松」という松並木があります。古来より松は人々の憧れでした。しかし明治以降広まった松枯れ病は今なお解決されておらず、各地で被害をもたらしています。長寿と繁栄の象徴である松が日本から失われることのないよう祈っています。
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舞囃子・半蔀 題名の「 「半蔀」には、『源氏物語』に出てくる光源氏の愛人、夕顔が出てきます。『源氏物語』と言えば皆さんご存知のお話。夕顔の名は、源氏に歌を贈る際に、扇に歌を書いて夕顔の花を添えて贈ったことから来たもの。ある夜源氏は夕顔を連れだして夜を過ごそうとします。ところが夕顔は、当時源氏が付き合っていた六条御息所の生き霊に取り付かれ死んでしまいます。この中の夕顔は、夕に花が開き朝には萎む、はかない命である夕顔の花そのもの。今回舞うところは、そんな夕顔の霊が舞っている所です。 場所は、都の紫野雲林院。ここの僧が、九十日にわたる夏の修行をしていました。それももう終わりに近づき、この夏の仏事のために用いた花の弔いをしていました。すると、どこからともなく一人の女が現われて、白い花を捧げます。僧が、花の名を尋ねると「夕顔の花」と答えます。そこで、女の素性を尋ねると、五条辺りの者だとだけ言い、花の陰に消え失せます。 僧が不思議に思っていると、近所の人がやって来ました。その人は、光源氏と夕顔の物語を聞かせ、その女は夕顔の霊であろうと述べ、弔いに行くことを勧めます。そして僧が五条に来てみると、荒れ果てた一軒の家に、夕顔が咲いています。その家に、夕陽が落ち、月の光が差し込む風情を眺め、源氏物語の昔を偲んでいると、半蔀を押し上げて、女が現れます。女は、源氏との恋物語りをし、舞を舞います。しかし、夜明けの鐘も頻りに響いて来て、女は再び半蔀のうちに入っていきました。 ……と思ったのですが、それは僧の夢の中のことであったのでした。
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舞囃子・猩々 僕、猩々。よくオランウータンに間違えられるけど違うよ。中国の想像上の生き物なんです。海の中に住み、赤いお顔に、赤くて長い髪を持ってます。声は子供のようにかわいくて、人間の言葉もちゃんと分かるんだよ。そして、何よりもお酒が大好き。 中国のある所に、高風というたいそう親孝行で評判の高い男がいました。ある夜彼は、とても不思議な夢を見ます。それは、揚子の市に出てお酒を売ると、お金持ちになるというもの。その夢のお告げの通りにすると、次第にお金持ちになっていきました。しかし、その市が出る度にやって来て、酒を飲む者がいます。その男はいくら飲んでも、顔色が一向に変わらないので、その名を尋ねます。実は僕なんだけど。そこで僕は、海中に住む猩々なんだよと明かして帰っていきました。 そこで、高風は、月の美しい晩に入り江のほとりに出て、酒壺を置き、僕が出てくるのを待っています。 僕は、薬の水とも菊の水とも呼ばれる銘酒が飲みたくて、また良き友と会うことも楽しみで、波間から出てきます。空には月も星もくまなく輝き、岸辺の葦の葉は風に吹かれて笛の音をかなで、波の音は鼓の調べのように響きます。この自然の音楽に乗って、僕は舞い出します(ここが今回演じる場所です)。そして、高風の素直な心を誉めて、無限に酒が湧き出る壺を与え、消えていきました。 また、日本には僕の名前のついた「ショウジョウバカマ(猩々袴)」というユリ科の植物もあるんだよ。花を僕の顔に、葉を袴にみたててつけられたんだって。山野のやや湿った所を好み、春にとってもきれいな花をつけるので、すごく目立つんだよ。彦根市付近では二月上旬から三月下旬に甲良町の西明寺で、また六月下旬から七月中旬まででは秦荘町の金剛輪寺で、両方とも千株程のショウジョウバカマが境内一円で見られるらしいよ。是非とも見てみてね。
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能楽・船弁慶 離ればなれであった源頼朝・義経兄弟は再会し、力を合わせて平家を滅ぼした。ところが讒言により、頼朝は義経を疑うようになる。その疑いを解くため、義経は弁慶や従者たちとひとまず都を離れることにする。 一行は摂津國尼ヶ崎・大物浦に着く。ここで弁慶は義経の愛妾、静御前がついて来ていることを知り、義経に静を都へ帰すよう進言。義経はこれを承諾する。 弁慶は静を訪ね、義経が都に帰るよう言った、と伝える。どこまでもついていくつもりであった静は悲しみにくれるが、義経が自分をおいていくはずがない、と思い義経の心の内を確かめに行く。 しかし、静を前に義経は都に帰るよう伝える。けして義経の心が変わってしまったわけではない、と弁慶は静を慰める。だが、永遠の別れになるかもしれない。静は、生き長らえていつかまた逢えることを祈る。 弁慶は静に酒を勧め、門出を祝い舞うように、と烏帽子を渡す。船路の門出は二人の別れ。静は進まぬ心で舞い始める。やがて別れの時が近づき、静は気丈にも船出を促す。そして烏帽子を脱ぎ捨て、義経たちを見送る。その場にいた者たちも静を哀れみ、涙を流したのだった。 別れを惜しむ義経を押し切り、弁慶は船頭に船を出させる。門出にふさわしい天気であったが、風が吹き、海が荒れ出す。従者が弁慶に船にあやかしが憑いている、と言うが弁慶はこれを制し、不吉な言葉を発したことを船頭にわびる。だが再び波が打ち寄せてきた。 その時海上に滅亡した平家一門が浮かび上がってくる。義経は悪逆非道を重ねた者たちの恨みなど何ほどでもない、と言い切る。すると平知盛の亡霊が、義経を海に沈めようと長刀を手に斬りかかってくる。義経は刀で戦うが、亡霊には効かず、弁慶が数珠を押し揉んだところ、亡霊は遠ざかっていった。そして船を走らせたところ、引潮に揺られ亡霊は行方がわからなくなった。そして海面には、白波が残るだけであった。
詳しくはこちらへ ・史実と船弁慶 <五期生 T.Y> ・装束 <五期生 A.M> ・全文掲載(現代語訳付き) <五期生 T.Y> |
舞囃子・葛城 昔、役小角という行者がいました。仏教流布のため葛城山で、そこから神山に渡るのに葛城の神に岩橋を渡せと命じました。しかし、葛城の神は顔が醜いことを恥じ、応じなかったため、役小角は怒り不動明王に命じ、葛城の神は縛めを受けました。三熱の苦しみが葛城神をおそいます。さらに縛めも受けました。『葛城』という演目はこのあとに続く話です。 出羽国羽黒山の山伏が葛城山に峯入をし、降りしきる雪に困っていると一人の女が現れ、谷陰の庵に山伏を連れて行き、もてなします。明け方、山伏が「後夜の勤行」を始めようとすると、女は自分には三熱の苦しみがあるから加持祈祷をして、助けてもらいたいと頼みます。不審に思った山伏が詳しい話を求めると、女は昔、岩橋を架けなかった咎めとして明王の縛めを受けている葛城の神であると正体を明かし、消え失せます。 以上が舞囃子では舞わない、『葛城』の話の筋です。舞囃子で舞うのはこの後の部分です。この部分の葛城の神は非常に人間くさくて好きですね。 呪いをかけられる発端となった、人前に姿を現したくないという葛城の神が、夜明け前の雪月下で明るいにも関わらず、「見苦しき顔で恥ずかしいけれども構うものか、さぁ、大和舞を舞おう」と、一大決心して山伏の前に現れ、大和舞を披露します。しかし、舞囃子後、「神の顔かたち面はゆや。恥ずかしや。浅ましや」という地謡に合わせて顔を隠し、夜明け前に岩戸の中に恥ずかしいと引きこんでしまいます。 『葛城』のこの舞囃子は、太鼓序之舞物の一つで、他の舞囃子と比較して非常に緩やかなものです。そのため演者も観客も大変です。でもテンポに乗る所や型の美しさを表現出来るように頑張りたいので見て下さいね。
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舞囃子・天鼓バンシキ その鼓は僕が生まれたときに天から降ってきた。そもそも僕も、鼓が天から降ってきて胎内に宿る夢を母が見たから生まれたのだ。僕は天鼓と名付けられ、僕と鼓はいつも一緒だった。鼓の妙なる響きは国中の評判だった。 皇帝に鼓を召し出すよう言われたが、渡したくなかった僕は、鼓を持って山中に隠れた。それでもすぐに捕えられ、僕は呂水に沈められた。その時から鼓は鳴らなくなった。鼓も死んだ。僕の魂は水底で苦しみ続けた。 けれど、今夜、呂水の上に浮かび出られた。管弦講、僕の好きな音楽での弔いのおかげで。川のほとりに据えてある僕の鼓。夜空には天の川。そのほとりに輝く牽牛星、別名は僕と同じ天鼓だ。またたく星、流れる水。打ち寄せる波は鼓のような音を立てる。波は滔々、鼓は鼕々。長い間離れ離れだった僕と鼓。鼓は前と変わらぬ音を発し、奏されている曲にのる。うれしさに心も躍り体も舞い上がる。きらめく星、打ち寄せる波、めぐる音。 ああ、なんて楽しいんだろう! 松や柳の葉をさやさや撫で行く秋の風には秋風楽が似合う。月の冴えかえる夜空、牽牛と織女が出逢うのはきっと、こんな空だろう。二人が出逢う夜ならば鵲たちが羽を連ねて橋となる。別れの時が訪れたら、悲しむ二人が流す血の涙で羽は赤く染められる。鵲たちよ、僕と鼓が再び出会えたこの夜には、その身を紅に染める必要はない。変わりにたくさんの紅葉を敷きつめよう。夜が更けて風が涼しくなってきた。まさしく夜半、次は夜半楽を奏しよう。地上には南へと流れる川の水。ふと北天を見上げれば北極星を中心にめぐる星たち。僕と、僕を取り巻く音楽のように。天の川に立つのは雲の白波。僕は呂水の堤の上から月に向かって謡を口ずさむ。そして波を立て、袖を翻して舞う。時の経つのを忘れて舞い遊ぶうち、鳴り響く五更の鐘の音。もう四時になる。鳥が鳴いて夜明けを告げる。ほのかに白みはじめる東の空。最後に時を知らせる鼓を六つ打とう。一つ、二つ…夜が明けるよ…三つ、四つ…ありがとう、楽しかった…五つ、六つ…僕は、もう、行くね。
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番外仕舞・鵜之段 「鵜之段」とは能楽「鵜飼」の一部分のことです。まず「鵜飼」のお話から見ていきましょう。 ある僧が甲斐国へとやってきました。土地の人に一夜の宿を頼みますが、断わられ、代りに川辺の御堂に泊まることにしました。そこへ鵜を休めるために、老人が立ち寄ります。その老人は、かつて殺生を禁止されている川で鵜飼をしたため、殺された老人の亡霊でした。そして、成仏できずに苦しんでいる身を回向して救ってほしいと僧に頼みます。僧は成仏の妨げになっている鵜飼の様子を見せ、それによって懺悔することを勧めます。 老人の亡霊が鵜飼の様子を見せ始めます(ここが鵜之段です)。松明をふりたて、巣立ったばかりの若い鵜を鵜籠から川に放つ。そして驚いた魚を追いまわす。そのときは殺生の罪も、その報いもすっかり忘れ果ててしまい、捕り残しのないよう、漁に励む。かがり火が暗くなったと思ったら、それは月が出たせいであった。 老人は軽快に鵜飼の様子を見せました。しかし、またその面白さを楽しんでしまった自分を恥じ、消えていきました。その後、僧は経文の文字を書きつけた小石を川に投げ入れ、老人を弔いました。おかげで、殺生の罪で地獄へいくところだった老人は、極楽へ行けることになったのでした。
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顧問出演舞囃子・融 秋のある日、旅の僧が都に着き、六条河原の院の旧跡を訪ねる。そこに桶を担いだ塩汲みの老人がやって来る。老人は、ここは左大臣源融の旧邸であると言う。続けて老人は、融は奥州 そう語るうち老人は感情が高ぶり、いつしか融自身であるかのように、昔の栄華を想って嘆く。その後、僧の求めに応じて辺りの名所を教えた後、桶で潮を汲むうち、不思議なことに、あるはずのない潮ぐもりで姿が見えなくなってしまう。 僧はこの場に留まることで、何か起こるのではないかと思い、旅寝することにする。するとその晩、融の霊が貴公子の姿で現れ、名月に照らされ、昔の姿を取り戻したかのように見える河原の院で舞を舞う。幻想的な光景の中、やがて明け方となり、融の姿は、月世界に向かうかのように消え去っていく。 融の化身である老人は、「月もはや、出汐になりて」と現れ、融は、「月もはや影かたむきて」と消えてしまう。「月」と共に現れ、「月」と共に消えてゆく。月下で展開する幻想的な曲である。しかし古来より「月」は幻想的な「美しさ」だけでなく、「妖しさ」も照らし出してきたことを忘れてはならない。 融の亡き後、廃墟となっていた河原院に鬼が出る話が『今昔物語』に載っている。それを踏まえてか、もともとこの曲は、観阿弥作の陰惨な鬼の能であった。世阿弥が今のような曲に作り変えたわけだが、「月」の持つ魔力は、妖しき鬼と優雅な貴公子という相反する属性を内包している。月光の輝く美しい晩には、その妖しき魔力に魅了されないよう、くれぐれもご注意を……。
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番外仕舞・兼平 近江八景のひとつ「粟津の春嵐」。かつては瀬田川河口西一帯に松原が広がっていました。今は工場が建ち並んでいます。この地で木曾義仲とその忠臣今井四郎兼平は命を落としたのでした。 木曾に住む僧が義仲の跡を弔おうと粟津に行く途中、矢橋の浦(草津市)に着きます。そして舟に柴を積んで近づいて来る老船頭に便船を頼みます。老船頭は一度は断りますが、たっての頼みに僧を乗せます。比叡の名所を眺めつつ、舟は粟津に着きました。と、老船頭が忽然と姿を消してしまいます。地元の渡し守に聞くと、それは兼平の霊ではないか、と言います。夜、僧が回向を始めると甲冑姿の兼平が現れ、先程の老船頭は自分であったと明かします。そして、柴舟を法の舟として彼岸(あの世)の浄土に自分を渡してほしいと頼みました。また主君義仲の最期を語り始めました。 逃げてきた義仲の軍はついに義仲と自分だけになってしまった。一緒に討死しようとしたが、義仲は深みにはまって、敵に討ち取られてしまったのだった。だから先に主君である義仲の弔いをしてほしい。 次に自分の最期を語りました。主君の死を知り、もはや何の望みもなかったが、兼平は戦い続けました。しかし多勢に無勢。ついに「自害の手本を見せてやる」と、太刀を口にくわえたまま、真っ逆さまに馬から落ちて、果てました。主君への忠義心の厚い兼平の壮絶な最期でした。
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番外仕舞・善知鳥 諸国一見の僧が陸奥の外の浜に行く途中、越中の立山に立ち寄ります。今でも立山には「地獄谷」という所がありますが、僧はその光景を見て、感慨を催し、下山します。 と、そこへ外の浜に行くなら、頼みたいことがある、という老人が現れます。外の浜で去年の秋に亡くなった猟師の宿を訪ね、妻子に供養をするよう伝えてほしいと言うのです。そして証拠にと、老人は着ていた衣の片袖をちぎって僧に渡して、去っていくのでした。 僧は外の浜に着き、猟師の家を訪ねます。そして妻に老人の言葉を伝え、片袖を渡しました。なんとその片袖は亡き夫の形見とぴたりと合ったのです。妻子は驚きつつ、僧と共に回向します。 すると猟師の亡霊が現れます。猟師は生前していたウトウの殺生の様子を見せます。この鳥は、親鳥の声をまねて「うとう」と呼べば子が「やすかた」と答えるため、捕らえやすいのだと。そして冥土では、ウトウが化鳥となり自分を苦しめ、また鷹となって雉となった自分を追いかけている、と言います。どうか自分を助けてほしい、と僧に頼みますが、やがて姿は消え、見えなくなったのでした。 ウトウというのはアイヌ語で「突起」という意味です。嘴のところに突起のようなものがついている鳥なのです。親は「ウ、ウ、ウ」と低い声で鳴き、子の鳴き声は本当に「ヤスカタ」と聞えるそうです。
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附祝言・岩船 その子供と出会ったのは住吉の市へ行った時のことでした。中国の服を身にまといながら、日本語を話すという不思議な子供でした。そして手には金の輪にのせた宝珠を持っています。帝に朝鮮や中国の宝物を買ってくるように命じられやってきた臣下は、その子供から宝珠を渡されます。その宝珠があまりに立派なので驚いた臣下が尋ねると、「ただの宝珠です。ただし、心の如くなる宝珠なのです」と答えます。その言葉で臣下はそれが望む物は何でも出すという「如意宝珠」であると気付きます。子供は自分が「岩船」の漕ぎ手である天探女であることを明かし、姿を消します。 やがて臣下の前に竜王とその眷属である八大龍王が現われ、岩船を引っ張ってきます。岩船とは宝船。金・銀・珠玉で満たされています。これは、今の日本は正しい政治によって治められているとてもよい国であるから、という天からのご褒美なのだそうです。竜王たちは津守の浦に宝を山のように積もらせます。そうして天はこの国を末永く守護され、千代先まで栄える国としたのでした。 用語解説を見てくだされば分かるのですが、附祝言はその日の公演の最後に謡われるものです。その日の公演がどのような内容であっても、今日は良い日であった、次回もこうありたい、という気持ちで舞台と観客と演者と別れるために謡うのだと思います。 本日の公演はこれにて終了です。少しでも楽しんで頂けたのなら幸いです。これからも滋賀県立大学能楽部をどうぞよろしくお願いします。ありがとうございました。
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お能でウフフ 僕と鼓と水際で。さあてどこまで続くんだろかな、と。 秋ですわ。って、毎度毎度言ってる気がしますけど仕方ないですね、淡海能は毎年秋に開いてるんですものね。さて、澄みわたる秋の夜空により一層輝きを増す星の下、『天鼓』の天鼓くんは舞い、謡い、鼓を打ちます。このお話には天鼓くんが沈められた川と天上の天の川が対になって出てきます。川に添えて置かれた天鼓くんの鼓のように、天の川のほとりには天鼓(牽牛星)が輝きます。鼓、星もさることながら、川も見逃してはならない存在なのです。天鼓くんが鼓を持って逃げて捕えられた場所は山だったのに、殺された場所は川。なぜかしらね、と考えてみるに、どうやら、水の音と関係がありそうですよ。お能の世界は水や波の音を鼓の音に喩えるのが大好きで、水辺で舞いはじめようとすると、きっと水音と鼓の音をかけたり、水音そのものを鼓の音に見立てたりするんですもの、こんな感じに。 「峰の嵐や、谷の水音鼕々と。拍子を揃へて、音楽の響き」(養老)「鼓は瀧波 袖は白妙」(山姥)「鼓はをのづから、磯打つ波の声」(白鬚)「芦の葉の笛を吹き、浪の鼓どうと打ち」(猩々)「浪の鼓や風の簓」「さざ波は簓 打つ波は鼓」(東岸居士)「鼓は波の音、笛は龍の吟ずる声」(白楽天)「棹のさす手も舞の袖、折からの浪の鼓の、舞楽につれておもしろや」(唐船)「本より鼓は、波の音。もとより鼓は、波の音、寄せては岸を、どうとは打ち」(自然居士)「いつも太鼓は鼕々と風の打つや夕波の」(鳥追舟) そして、『天鼓』にはこんなくさりがあります。 「打ち鳴らす其声の。呂水の波は滔々と。打つなり打つなり汀の声の」 水・波の音と鼓の音を結びつける考え方は連歌の世界でもはぐくまれました。連歌はいろんな人が、前の人の着想や言葉を生かしつつ、うけて、もしくは発展させて次の句を詠み、次の人に渡していく、そんな芸術ですよね。ですからこの言葉が来たらこういう合せ方がいいよね、きれいだよね、と言葉を結び付ける考えが磨かれていきました。そういう言葉を集めた、連歌の種本のような書物に『連珠合璧集』というものがあります。鼓については、こんなふうに書かれているんですよ。 「鼓とあらば。 打つ。時守。いさめ。瀧。川音。苔深し。御法。」 「打つ」はそのままですから分かりますね。「時守」というのは、時刻を知らせるのに鼓を打っていたからでしょう。「瀧」「川音」は、その音を鼓の音と見立ててるってことですね。これ、これを誰がいつ頃考えついたのか、っていうことがほんとは一番知りたかったんですけどまだ分かっておりません。くぅー、修行不足。負けないわ。まあ、そう聞こえるもん、っていうのが共通理解になっていったのだとは思うのですが。なぜって、今日のお能の『船弁慶』で義経主従が海上を行く場面、あれを見て聴いて下さったらナルホド、と思うでしょうよ。波が打ち寄せてくるさまを小鼓と大鼓で表すのですけど、本当に大きい波、小さい波が来るんですから! あの場面、大好きです。みんなも好きになるはずよ、ステキだもの。 さて、あとの三つはちょっと水から離れるけども触れておきましょう。「いさめ」「苔深し」、これは、中国のお話からきてますわね。むかしむかし王様が「私の国の治め方に間違いがあれば鼓を打って訴えるように」といって、門の外に鼓をかけておきましたの。鼓を打つことはすなわち王様をいさめる、ってことなんですね。とはいっても、その王様の治世は立派だったので文句を言う人がなく、つまりその鼓を打ちに来る人が長い間いなくて、その鼓にはみっしり苔が生えたそうですけど。つまり苔の生えた鼓は世の中が上手くいってる証なのですね。そうすると、天鼓くんは皇帝にちっとも恨み言をいいませんけど、鼓を打つこと自体が「もうこんなことしちゃだめだからね」って言ってることになる…のではないかしら。 「御法」というのは仏道、仏さまの教えのことです。仏さま、と一口に申しましてもそれぞれに特長・特技をお持ちの方が大勢いらっしゃいます。そのなかのお一人に、「天鼓雷音仏」という方がおられます。打たなくてもひとりでに妙音を発する神秘の鼓・天鼓の響きでみんなを悟りに導いてくださるお方です。ひょっとしたら天鼓くんはこの方の化身だったのかも、なんて、今宵は夜空に瞬く星を眺め物想いにふけるとしましょうか、秋ですものね。あたくしだって食べてばかりとは限りませんことよ、ウフフ。
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